悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024@りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

吹替版

何故か、『パシフィック・リム』のネタバレっぽいものが含まれていますので、ご注意ください。



ボクは、洋画の吹替版を積極的に選択して映画館まで観に行くことが、不思議というか、疑問なのですよ。吹替版を否定するわけじゃないですし、その楽しみ方もアリだとは思っています。

小さい頃、映画という存在を知って大好きになった頃、その窓口はテレビで放映している映画だったし、洋画なんて吹替でカットされまくっているものでした。それでも夢中になったし。吹替とかどうとか、気にならないというかわからない年齢だったっていうのもあるけど。

いつ頃からやろうか。洋画を吹替では観たいと思わなくなったのは。

外国人が執筆した本の翻訳ものも、いつからか読まなくなったんですよね。だって、作者→訳者→読者っていう流れになって、どうしても訳者の影響が色濃く出てしまうじゃないですか。それって、どうなのかなって。その作者の本を読んだって言えるのかなって思うようになって。洋画の吹替も同じように思ってしまったんですよね。恐らく、ビデオレンタルが普及し出した頃で、原語と吹替の選択が容易になってきたという環境が、その考え方を後押ししたような気がします。

映画って何故か監督のものってされてるけど、ボクは、映画を好きになった頃から、それってどうなのって思ってるんですよ。だってさ、監督が一人で作るわけじゃないし、大作になるほど、たくさんの人が関わるじゃないですか。

原作(原案)とかが別にあることの方が多いし、お金集めやスケジューリングもプロデューサーとかだし、脚本家もいるし、カメラも照明も音響も音楽も監督自らしないことがほとんどですし、役者もたくさん出ますし、編集だって監督が口出し出来ない映画もあるしさ。そういう環境で作られたものが、どうして監督一人のものって言えるんだろうか。米国の著作権の関係か何かで、監督が著作権者の一人になるだけってことでしょ。大昔はより監督の作業比重が高かったとは思うけど、時代は変わったし、それに囚われる必要なんてないし。監督が最終的に取りまとめていないことも、ビッグバジェットの映画だったら多いでしょうし。

セガールの映画なんて、監督が誰それっていう影響よりも、セガールが出ているかどうかの影響の方が、確実に大きいでしょ。なら、それは、セガールの映画と言った方が現実的だと思うし、事実だと思うのです。

話が逸れました。

話を戻して、疑問の中心は、コアな映画ファンの中には、映画監督の作家性をかなり重視する人が多いのですが、それ自体はいいのですが、そういう人でも吹替版を積極的に選択するっていう行為はどういうことなんやろうと。

本の翻訳にしても、洋画の吹替にしても(映画は監督のものだと仮に仮定したとしても)、それって作家性を薄めて、第三者の作家性を持ち込んでいる作業には違いないでしょう。特殊な場合を除いて。

洋画の吹替の場合、声優選びから録音時の演出まで元々の監督がやってるなら別やけど。そうじゃないでしょ。そこに、元々の制作者とは別の人の影響がかなり入ってきますよね。端的に言えば、二次創作なのですよ。

そりゃ、字幕だって結局は薄めてることに違いはないですよ。まぁ、その度合い、線引きが許せるかどうかなんでしょうけどね。ボクは、字幕ですら許せません、実は。英語ならなんとなくわかる部分も多いけど、フランス語とかイタリア語とかスペイン語とかロシア語とかなると、何を言ってるのはさっぱりです。それでも、その役者自身の声(実は原語でも映画製作陣が関与していない吹替というのはあるのですが。ヨーロッパとか海外では、英語の映画でもドイツで公開するときはドイツ語になってたりとか頻繁にあるらしいですけどね。日本もやっとそうなってきたって言えるのかもしんないけど)で、なんとなくどういう感情なのかわかるときもあるじゃないですか。

吹替版を楽しむことについては、先にも書いたとおりにその行為自体を否定はしないんです。ただ、映画の作家性云々という人が、吹替版を積極的に選択するっていうのは不思議というか不自然だと思うのです。なんで、作家性が薄まる、もしくは改変されてるかもしれないものを観て、なんとも思わないのだろうって。日本で公開されるときに、本国の公開版からカットされた場面があったら騒ぐのに。変にボカシが入ってたら騒ぐのに。

純血主義とか潔癖主義っていうことでもないんですよ。ただ、ボクは、出来る限りオリジナルの状態で観たいのです。

パシフィック・リム』の劇中で、主役ロボットのジプシー・デンジャーが怪獣を殴りつけるときに、「エルボーロケット」っていう技を使うんですよ。主人公が「エルボーロケット」って叫ぶんですよ。胸熱ですよ。ところが、吹替版では「ロケットパンチ」になってるらしいです。そう変えたのは、配給会社のお偉いさんらしいんですね。元々、予告編でもあるように、本編でも「エルボーロケット」って叫んでいたらしいのですが、急遽変更になったそうです。これ、デル・トロが関与している話じゃないですよね?じゃぁ、監督の作家性はどこに行ったんでしょうね。微々たる影響というか、ほぼ影響なんてないとも言えるけど、そういうのが積み重なったとき、一体誰の作家性が残るんでしょうかね。

何度も書きますが、吹替版を否定はしません。ただ、それを積極的に選択するっていうことは、映画監督の作家性の一部を、観客が意識しないまでも、間接的であっても消極的であっても、否定してしまう行為ではある、っていう認識は、映画ファンを自認するなら、持っておくべきなんでしょうね。ボクは、そう思います。

何度も同じ映画を観ていて、理解を助けるために吹替版を選択したっていう場合もあるかもしれませんね。それなら、まだ理解は出来るのですけどね……。