悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2017©りょんりょん) ※映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。

メッセージ

ネタバレしてます。




 この映画の構成を見習って、思ったことを書き殴ってみました。なので、時系列を揃えてはいません。

 主人公(エイミー・アダムス)の娘のパパはジェレミー・レナー。

 時々挿入される主人公と娘との交流は過去の場面ではなく、実は未来の場面。

 散々この映画のポイントは語られると思いますが(雰囲気系の映画ですが、語りたくなる映画でもあると思います)、主人公がどの言語で思考するようになったのかというのは大事なポイントです。

 「ばかうけ」に乗ってやってくる宇宙人は、時間の流れを過去・現在・未来の直線的な流れではなく、未来も含めて全てわかっている中で(地球人的視点からの)現在の時間軸に存在しているということ(という私の理解)。宇宙人の言語が丸い(サークル)のが、それを表していると思います。時間の概念は、流れというより円環しているということ。

 人間のDNAの中にも、生まれてから死ぬまで(突発的な事故での死亡とかも含めて)記録されているという説がありましたが、この映画の宇宙人はそれと同様に自らの人生(宇宙人生かw)を既に知っていて、それを受け入れて、というか当然のこと捉えて生きていること。でも、その事柄が「運命がわかっていて、それを受け入れている」というのとはまた違うような気がします。

 主人公が、娘が不治の病に冒されて若くして(15歳くらい?)死んでしまうとわかっていても、その選択肢を選んでしまうのは、主人公にとってはそれは選択肢という概念ではなくなっているからとも考えられます。

 娘の名前が「ハンナ」(hannah)と、前からも後ろからも同じ読み方になるというのも、宇宙人的思考だったからでしょう。

 所々、主人公が回想しているように思える場面は、実は未来ですよっていう提示は劇中でも示されています。娘が作っている粘土細工の中に宇宙人がいたり、数学博士のパパにうんたらと娘に言ったり。

 映画は詩的な感じ。映像はずっと曇天模様な感じなんだけど、多分意図的。

 映画表現の素晴らしさを感じるとともに、映画表現の限界(不得手な部分と言うのが正解かな)を感じてしまう映画でもありました。

 主人公が未来を回想する場面で老けていないのは、ミスリードさせるためというのもあるけど、それがこの映画の欠点にもなっています。もう少し提示の仕方はあったのではないかなと。

 主人公が宇宙人の言語の本出したり、宇宙人の言語を理解することで、過去・現在・未来という時間の流れではない思考になってしまったのって、結局、これは宇宙人の侵略が一部にせよ成功したってことじゃないのか、と思えたり。