悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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アベンジャーズ/エンドゲーム

disってますし、ネタバレも随所にかましていますが、決して落胆したとかそういうのではなく、普通に興奮しましたし、楽しめた映画でしたよ。感想がかなり長くなり過ぎてしまいました。

 

 

 

 最終回感満載でした。一応、『アイアンマン』から続いたトニー・スターク一代記の幕引きと、キャプテン・アメリカ退場の儀式の映画として作られているんだから、そりゃ最終回感はどうしても漂いますよね。

 キャップが遂に「アベンジャーズ、アッセンブル」と落ち着いた、しかし覚悟を込めたセリフを口にした時の感動といったら。いや、ここだけでこの映画は役目を終えたんじゃないか、そんな気がしました。そしてもうひとつ、「I am IRONMAN」という社長の死ぬ間際の最後のセリフ。これは泣けました。うん、アッセンブルとこのセリフが、この映画でやらないといけなかったことなんだな、そう思いました。

 映画の中のキャラクターの生き様よりも、演じた役者やこれまでの歴史に重きを置いて作られたのかなと思いました。キャップの最後の選択、最終回という意味では最高かもしれないけど、映画の中のキャプテン・アメリカというキャラクターが選択することだったのかと思うと、私は違和感しかなかったというか。特に、トニー・スタークが自分の命を投げ打ってヒーローになった選択の後だからこそ、余計にそう思いました。だからこそ、社長の選択があれだったからこそ、キャップはこちらの選択をした、という解釈も分かりますし、理解はできますが、納得したくないんですよ(笑)。

 キャップがムジョルニアをとうとう手にしてソーを助ける場面はテンション上がりました、1回目に観たときは。ちょっと余裕ができた2回目の鑑賞時、前述の場面に繋がる少し手前、サノスに攻撃されているソーが離れた場所にあったストームブレイカーを手元に引き寄せようとしたのですが、ソーの手に渡る前にサノスが持ってしまうんですよね。ストームブレイカーってムジョルニアとは違って、誰でも持てるっていう設定だったのかな。どっちにせよ、その後のキャップがムジョルニアを持つ場面に水を差す演出だったとは思うのです。こういう雑なところもかなりある映画でした。

 物語の展開もよくよく冷静になってみるとグニャグニャというか。タイムトラベルに手を出すな、数年後という展開はダメだと、以前から口を酸っぱくして言ってるのにやってしまうからこういうことに……(苦笑)。コメディ部分も多すぎるというか。ハルクとバナーでSayグリーンはないだろ。なんで簡単に、たった18ヶ月で融合してんだよ。ソーもデブったままだし。最終決戦もそのまま。どういうことだよ。こういう部分をなくすことで、もっと時間を縮めるか、(これでもカットしてるらしいけど)カットした場面を入れるかとかできたんじゃないのかな。と素人に思わせてしまう時点で、この映画の作風というか作り方の路線としては失敗していると言ってもいいような気がします。まぁ、素人が言うなって言われるだけでしょうけどね。

 過去のサノスが今回のラスボスになっているからもあるんでしょうけど(最愛のガモーラを殺すという経験もしていないし)、前作のサノスより小物感満載で、かなりスッキリしないのも不満点かな。前作であった大物感を持続(という言葉は間違ってるけど)していてほしかった。インフィニティガントレットなしの素のサノスさんは、キレたワンダさんには一方的にやられ、多分マーベルさんにも及ばない程度の強さのようでしたし。ワンダさんに殺されかけて、敵味方構わず宇宙船からの一斉射撃をとっととやれと命令してるサノスさんの余裕のなさ(命乞いみたいなもんですよ)。ワンダさんもマーベルさんもストーンの力を持ってるから当然なんでしょうけどね、この差は。こういうところからも、小物感が拭えませんでした。

 ジェレミー・レナー真田広之さんとの戦いはよかった。ローニンのスピンオフを作ってほしい。勿論、最後の場面はこの映画の流用でいいですから。でも、ジェレミー・レナーの日本語はもっと鍛錬させないといけない(笑)。いや、トンデモ日本好きな自分としては、これでいいのだ!

 バートンとナターシャの関係性ですが、ナターシャが自身の命を捧げる、犠牲にすることでソウルストーンをバートンは手にするわけですが、最愛の人というには、バートンは妻子持ちだし(この映画もバートン一家からスタートじゃねーかよw)、ナターシャはバナー博士とラブラブになってたし、どうも二人の関係性が釈然としない。兄弟姉妹でもないようだし。戦友で親友ではあるんだろうし、そういう愛情もあるのは分かるけど。最愛の人を失ったが故のゲットだと考えると、バートンにはほかにも最愛の家族がいるんですから……。前作でも思ったのですが、ソウルストーンをゲットした時の場面、ベルセルクでグリフィスが覇王の卵と再会する場面を思い出すのです。捧げるのではなく、捧げられた側という違いはありますが。

 サノスに指パッチンで消えていった人が5年後に復活しますが、社会が大混乱しないのかなと。劇中で、みんながみんなナターシャみたいに過去だけ見て生活してるわけじゃないだろうし、キャップも前を見てなんて建前でも言ってたし。配偶者が消えてしまって、5年の間に再婚したけど、配偶者が復活したことによって泥沼化とか。子供が複数いて、上の子が消えてしまい、下の子がその当時の上の子の年齢を超えてしまったのに、上の子が復活となったときとか。で、ピーター・パーカーが高校に戻ったときの描写はそういうことだったようですし。アントマンの娘って、5年経ったら10代後半くらいの年の子でしたっけ?

 サノスの5年前の指パッチンでサラサラと消えていった人は蘇ったけど、今回のサノスとの最終バトルでアベンジャーズに加勢してなくなったモブキャラさん達もたくさんいんだろうなぁと思うと切ない。

主要メンバーの顛末
社長:指パッチンして死亡
キャップ:過去にストーンとかを戻しに行ったけど、そのまま過去にいついて彼女と結婚(?)
ソー:デブったままGotGのメンバーに(?)
ハルク:ギャグ要員に
ナターシャ:死亡
ホークアイ:ローニンになって生き残り(純人間としては快挙?)

 物語やキャラクターの整合性が取れない部分を、情報量の多さや、こういうのが観たかったんでしょうという場面を投入することで目線を逸らすというやり方がここ最近多いような気がしていましたが(その手法が悪いという意味ではありません)、今回はそのバランスが危ういというか、崩れてしまったように思いました。整合性なんて細かいことを言うなっていう人は、例えば、アイアンマンが急に仮面ライダーに変わっていたらどうしますかと問いたい。ヒーローには違いないだろ、細かいことは気にするなよって言われたらどうしますか。整合性が取れなくなるのは細かいことではなく、根本に大きく関わってくる大きな問題になりうるんですよ。と言いたい。大勢のキャラクターを登場させないといけないことから、難しいのは分かるのですが、今回退場するであろう初期主要メンバーにもっと絞って、丁寧に描いてもよかったのかもしれないなと思いました。

 なんか書いていると、不平不満というか、湧水のように出てきてしまいましたが、これまでの『アイアンマン』から始まったシリーズが一旦の区切りがあることからへのこの映画に対する大きな期待への裏返しであって、もう満足度数が他の映画に比べて極端に高くなっているのと、こうあってほしいという勝手な希望が混ざり合った結果なのです。

 MCU自体は続いていくみたいだからかもしれませんが、最終回を観た後のちょっとしたロス感がないですよ。この感想を書いていて気付きました。それほど、まだまだ興奮しているのかもしれません。