悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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青木篤志選手のこと

 7月22日の後楽園ホール大会でもメモリアルマッチが開催された、2019年6月3日に亡くなられた青木篤志選手のことについて書いてみます。メモリアルマッチでの佐藤光留選手の試合後のコメントで「根本的には1日も忘れていない」という発言がありましたが、忘れていないというよりも忘れられないんだろうなと。もうあれから2年も経つのか。

 初めて彼の死を知ったのは丁度ツイッターのアプリを起動した直後に流れてきたみちのくプロレスのツイートでした。最初はツイッターを使った交流戦開始とかのアングルかと思いました。本当に。それだけ唐突で突然過ぎた情報でした。

 彼への印象は面倒くさくて気難しく頑固なところがありつつ茶目っ気もあるという掴みづらい性格だけど(要するに本人も認めているようにややこしい性格ということですね)、リング上では基本に忠実にどんな展開(シリアスだろうがお笑いだろうが)にも柔軟に対応できるという選手というものでした。

 誤解を恐れずに書けば、私は青木選手のファンだったことは一度もありません。ニコプロでの彼の番組において彼の意見・言動に頷ける部分もあればそれは違うだろという部分もありました(番組は大好きで楽しみにしてましたけどね)し、彼の試合自体もプロレスはうまいなぁ、いい試合運びをするなぁとは見ていましたがそんなに好みではありませんでした。 

 秋山体制になってからの全日本プロレスを支えたのは、技術的な面では青木選手だったことは間違いありません。彼の指導によって全日本プロレスの選手や試合が一定の品質を保てていたと思います。全日本プロレスにおいて彼が若手を指導していたことも知っていますし、目の前で指導している場面を見たことも何度かあります。(ファンクラブ会員特典で早く会場に入れたため。)

 また、青木選手は秋山選手と諏訪魔選手を繋ぐ役割というか役目を担っており、だからこそEvolutionというユニットに居続けたのでしょう。これが一番重要だったのかもしれません、今になって思うと。

 現役選手で唯一「王道」を継ぐことが許される資格を持った秋山選手と、武藤全日本の代表選手でありここ数年の全日本プロレスを支えてきたという自負がある諏訪魔選手。この二つを分離させないことが2013年以降の全日本プロレスの復活の条件の一つだったと思いますし、それは成功したのではないでしょうか。

 結果的に秋山選手はDDTに移籍しましたが、青木選手がいたならどうなっていたのだろうか。それを妄想することが多くなりました。

 以前に書いたことの繰り返しとなりますがニュースや諸々の情報から推測すると、秋山選手は元々長くは社長業を続けるつもりはなかったこと(東スポの記事では5年程度で実際も5年だったかな)、社長に据えてくれた馬場元子さんの死去、社長時代の最後の方はかなり経営がきつくなりかけていたであろうこと、次世代を担う選手が揃ってきたこと、自分が社長であるることで閉塞感が出てきていたこと、諏訪魔派との意見や今後の方向性の相違・乖離が大きくなってきていたこと、それらが積み重なって秋山選手は去っていったと思っています。簡単に言えば自分の居場所がなくなったから。

 でも、もし青木選手が存命であれば潤滑油として社長業(経営者として)は退いていたとしても、選手として最後の火花を散らすために全日本プロレスには残っていたのかなと。そして、ジュニアヘビー級戦線も岩本選手への負担も減りもっと活発になっていたかもしれない。そう考えてしまいます。

 まぁ、タラレバを書くとキリはないけど、低迷し潰れかけた全日本プロレスを救ったのは宮原健斗選手が最大の功労者ではあるけど、それを支えたのは青木篤志選手の指導力と技術力だろうし、その道筋をお膳立てしたのは秋山選手だったということは否定できないと思うけど、そんな青木篤志選手がいないというのは、やっぱり寂しいよ。