悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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ザ・ハント

disってるかな。微妙にネタバレもしてます。

 

Amazonプライム・ビデオにて鑑賞

 

 

 本作もツイッターとかで評判がよく、アマプラにあったので鑑賞しました。最後の戦いの前までは凄くよかったのに、最後の戦いで大きくズッコケてしまったのは残念です。あれはないわーって感じです。「今までの苦労が水の泡」を映像にしたかったのかと思ってしまいました。

 こういう映画は最後の戦いの描き方も肝心だと思うのです。しかも演出上の匂わせで主人公とラスボス(狩る側のリーダー、ヒラリー・スワンクが演じています)とのタイマン対決がずっと煽られているのに、それが単純で安直な昔風味のキャットファイトになってしまっていたのは本当に残念というか無念ですよ(笑)。

 劇中でこれまでほぼ無双してきた主人公が、訓練8ヶ月の素人と互角の戦いを繰り広げての薄氷の勝利なんてどういうことなんだよって感じなのです。しかもハイレベルな攻防があるわけではなく、これはどう見ても訓練8ヶ月の素人同士の戦いだよねっていう描写になってしまっているのが……。それまで育ててきたテンションが一気に悪い方に切れてしまった感じがしました。

 ラスボスが才能あって8ヶ月でもここまで成長したという理屈だとしても、映像を見る限りではそう捉えられません。劇中の設定的にも厳しいです。ラスボスを訓練したのは戦争未経験の元州兵で、その人も主人公にあっさりとやられていたりします。弟子が必ずしも師匠よりも弱いわけではないけど、描写としては説得力に欠けるとしか言いようがないかなと。

 リベラルのお金持ちで才能にも溢れている人物ということで、少し訓練しただけで(お金持ちでないであろう)百戦錬磨の主人公と渡り合えるんですよっていう意味を込めていたとしたら、もっとラスボスの動きはよくないとダメだし。主人公役のベティ・ギルピンも徒手空拳の格闘アクションは苦手だったのか、ラスボスのヒラリー・スワンクと二人して腰が引けた戦いを繰り広げるのが映像になっている以上、ラスボスが格闘センスがあって強いという表現にはなり得ないでしょう。

 最初の展開から誰が主人公か分からず、主人公っぽい容貌や動きをした人をあっさりと屠り意外性を出すことに対しては成功はしているんですが、狩られる側の人達が猿轡をされて初めて目覚めた後に、本当の主人公をしっかりと主人公として分かるように映してしまっているのは製作側の自己顕示欲の現れだったのかな。ここはもうちょっとぼかしてよかったとも思う。単純に同じ画面にいたな程度の演出でよかったのではないでしょうか。

 リベラル層と保守層の争いという要素もあるようですが、実際はそういった要素を利用して人間が狩られるゴア映画を作りたかっただけで、深い政治的思想を込めたっていうものではないと思います。劇中でもキャラを通じて語っているように、ステレオタイプを映画の味付けとして利用しているだけなのでしょう。

 主人公は人違いでこの人間狩りに徴集されてしまうんだけど、本作の感想をググってみて本当に人違いだったのかという意見もあってびっくりしました。私は設定としても人違いだったと思っています。主人公の卓越したサバイバルスキル、イントネーション(発音とか訛り)でどこの国か判別できる能力、相手との会話で自分にとって必要な答えを引き出せる話術、警戒心、武器の扱い方、沈着冷静な判断力(最後はなくなったけどねw)。本人曰くアフガンで服役したこともある。こういった能力を兼ね備えているのに、(誤解を恐れずに書けば)12歳から職を転々とし、一つの職に長く付けず、生活保護にも何度も頼るといった人生の中でこれら全てを身に付けるのは無理とは言わないけど、かなり難しいと思う。主人公はアラフォーくらいの設定だと思うけど、12歳から28年程度しっかりと訓練してもそれだけ身に付けることができるかどうか。そういうことを考慮すると、劇中世界で主人公はそれらをブラフではなく実際に能力として身に付けているので、やはり人違いという設定だったと思います。

 州兵だった元軍人の顧問もいて、狩る人間の情報を全て調べているのに(あ、全てではないかも)、そんな能力を身に付けた人を呼び込むわけはないでしょう。勝ち目ないし、現に負けてるし。州兵の元軍人の顧問に戦争童貞なんて言い放つ主人公ですよ。序盤に自分の名札をなんか苦笑しながら見つめていますが、ここも主人公としては「また人違いだよ、スペルが違うよ(主人公と近くに住む同姓同名の人は名前のスペルが異なるという違いがあるようです)」っていう意味というか演出だったように思います。

 職を転々としてるから色々な人と巡り会うこともあり、それで言語のイントネーションを覚えたということも言えるし、職を転々の中で軍人だった時代もあったということも言えます。しかもこれは映画だし主人公補正もあるでしょうし。引っ掛かるのは狩る対象とされた発言時の写真ですが、あれは狩る側の人が見つけた写真というだけだったのかな。それと、州兵の元軍人の顧問を殺す時に見せた涙はなんだろうというのはありますけどね。人違いじゃないですよっていう誤情報を観客に提示して混乱させようという演出上の意図があったのかな。

 と色々と書いてみたけど、この映画は「騙す」がキーポイントということを考えれば、主人公は人違いかもしれないし、実は主人公も騙そうとしているんですよと、どちらとも言えますと敢えてぼかしている可能性もあるのかな。もしかしたら、製作中に設定が二転三転したのかもしれません。狩る側の人達も結構お間抜け揃いでしたし(笑)。