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悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2016©りょんりょん) ※映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。

物語る私たち

ネタバレというか、なんというか。disってはいないと思います。




 サラ・ポーリーと言えば、ボクにはリメイクドーンしか記憶にない女優さんなのですが、女優だけではなく、脚本書くわ、監督するわと、多才な方のようです。その彼女自身に起きた、というか、彼女の存在に関わる出来事を綴ったドキュメンタリー映画を観てきました。

 面白かったし、いい映画でした。ただ、観るのに疲れました。体力と精神力を消耗したというか。マーキー・マーク版のトランスフォーマーも観た後は疲れましたが(あちらは体力的な疲れがほとんどですがw)、時間はトランスフォーマーよりも短かったとはいえ、より疲れたように思えます。

 サラ・ポーリーの母親も女優であり、既に鬼籍に入られています。序盤から中盤は、その母親を、姉妹兄弟、父親、親戚、親の友人達等の発言を通じて、どんな人物だったのかを探っていきます。

 最初から感じた不穏な空気と、なんかモゾモゾするような違和感。

 ボクはこの映画の内容を、ほぼ知らないまま鑑賞に臨みました。知らなかった理由は、観る前日まで興味がなかったことと、偶然にも予告編に遭遇していなかったこと(もしかしたら遭遇していて忘れてるだけかもしれません)、ポスターからもビビっとくるようなものは感じなかったこと、という理由からです。

 何故、ボクはこの映画を急に観たくなったのか。どなたのものかは失念してしまったのですが、TwitterのTLにこの映画の感想が流れてきて、なんか観ないとダメだよなと、本当にふと思い立ったのです。早速、ネットで座席予約をして、観る準備を整えました。この速さを仕事に活かしたいとは全く思っておりません。

 映画が進むにつれ、だんだんと母親の、よく言えば破天荒、自由奔放な生き方に焦点が定まり、母親を懐かしんでいるかのような、なんとなくあったかいような空気が画面に流れています。

 しかし、ある事象を切っ掛けに、この映画の真の目的が現れます。サラ・ポーリーが母親と浮気相手の子供だったということによる、育ての父親の気持ちと、生物学上の父親の気持ちと、サラ・ポーリーの気持ちの交差、それとも相殺???。

 映画の感想とは関係ないですが、ボクは破天荒な人も、自由奔放な人も、原則嫌いです。こういう人は、無意識にやり逃げする、責任を取らない(つか、責任という認識がない)、それに、自分の欲望通りに生きたいという旨の言い訳を必ずします。そういうことは、ボクは認めないし、人として否定します。

 サラ・ポーリーの母親も、そういう人物だったんです。そして、浮気相手の生物学上の父親の、頭の不自由さ全開の態度。もう、悲しい事実だなという感情より、胸糞悪いというか、ムカムカするというか、そういう憤りの感情が高まりまくりました。

 最初に感じていた不穏な空気というのは、このことだったのか。そう思ったとき、既にボクはこの映画の虜になっていました。

 終盤になり、育ての父親に告白し、なんとなく、でも育ってきた時間があるしということから、ステレオタイプな展開というか、大団円っぽく終わろうとしているところで、サラ・ポーリー自身はどう思っているのか、この映画をどうしたいのか、という問いかけが、育ての父親からあります。

 そうか、この映画を通じて、サラ・ポーリーは自分の気持ちを整理したかったのか。そう思うところでしたが、最初からある違和感がそれを邪魔するのです。

 その違和感とは、育ての父親や母親の映像があるのは、二人共俳優の仕事をやっていたということからわかるけど、やけに姉妹兄弟も含めて、幼い頃からの映像がふんだんに、グッドタイミングというか、グッドチョイスであるよな、ということ。

 終盤の育ての父親を使って、インサート場面を撮っているという話の挿入。このエピソードで、前述のように、母親達が俳優だったのが理由なんだなと、消極的に納得しようとしていた違和感が、余計に増幅しました。

 エンドロールにて、その違和感の正体がわかります。母親達の映像も、幼い頃の映像も、この映画のために撮影していたんです。役者を使って。全てではないみたいですが。

 そうなると、この映画のお話も、どこからが本当で、嘘はあるのか、それとも、語る人それぞれの真実を提示しているだけなのか。撮影した過去の映像も、観客にイメージを増幅させたいための演出なのか。

 生物学上の父親とのDNA鑑定の結果の提示すら、本当なのかと疑ってしまいます。

 この映画には、「喜劇」という言葉が、全てを紐付けるキーワードかのように、よく出てきます。サラ・ポーリーはこの映画を撮ることによって、自身の出生の秘密を喜劇として捉えたいのか。それとも、喜劇映画のネタとした(事実ではないという意味で)だけなのか。

 ボクの理解不足から、どうしたかったのかはわかりかねます。ボクにわかるのは、この映画は凄く面白かったし、いい映画だった。けど、また改めて観たいとは思わない。ということです。

 それは、ネガティブな意味ではなく、この体験は一回限り、一期一会がいいのではないか、という意味です。

 時間が解決してくれるなんて嘘ですからね。時間は何も解決なんてしません。ただ、過ぎ去っていくだけです。時間が経過して、勝手に人が忘れるか、面倒臭くなるだけなんです。だから、火種が残っていると、また燻ることもあるわけです。

 想像する余韻を与えてくれる、いい映画には間違いありません。