悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024@りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ

しれっとネタバレかましてますし、ちょっとdisってもいるかなー。面白いし、凄い映画には違いないんですけどね。





 キャップ視点ではこういう感じなんでしょうか。

初恋の人(ペギー):死亡(姪っ子懐柔済みw)
元カノ(バッキー):幼馴染属性あり
前カノ(社長):いつもケンカばかりだった
今カノ(ファルコン):いつも信じて付いて来てくれる
愛人(ナターシャ):緑の人が好きな割にはちょっかいかけてくる

 色々な思惑が重なった末、キャップは元カノを選択しましたというお話です。その選択を今カノも応援するのですが、前カノが過剰に反応します。しかも、元カノが前カノの両親を惨殺していたことが判明。キャップはそれを知りつつ、前カノと付き合っていたということもあって、前カノの怒りが爆発。でも、キャップは自分に降りかかる火の粉は払う主義ということで、元カノとの愛あるタッグを結成し、前カノの心まで折り撃退。ほんまに鬼畜です。

 黒豹っていう、社長並みの資金力プラス一国の王という新しいパトロンもいつの間にか見付けていたキャップ。なんという恐ろしい子

 今回の事件の黒幕は、偽ユアン君です。ウルトロンの舞台となったソコヴィアの元暗殺部隊出身で、ウルトロン対アベンジャーズの戦いで家族を失ったことから、アベンジャーズに対して復讐を誓うのです。この復讐、成功しましたよね。最終的には偽ユアン君は捕まってしまいますが、一度こじれた人間関係の修復は難しいですし、主義主張の違いがハッキリとしてしまい、お互いに相容れないということもわかってしまったでしょうしね。次回のアベンジャーズでサノスという強大な敵を前にして、共通の敵は敵だということでまた仲間同士になるんでしょうけど、そういう安易な解決方法は選択してもらいたくないなぁ。

 あ、映画の感想になってない(笑)。前半は神懸かり的な面白さでしたが、スパイダーマンも加わってのアベンジャーズ内戦が空港(?)にて勃発したあたりから、なんというか、重いテーマと登場人物を繋ぎ止めていた糸みたいなものがプツリと切れてしまったように思えました。軽いノリのスパイダーマンが兎に角映画のトーンに合わなかったなと思います。

 この映画の立ち位置的に仕方がないのですが、もう少し独立した一本の映画にしてほしかったなと強く思います。数年後、アベンジャーズのインフィニティ・ウォーのあとに、この映画は真価を発揮するような気がします。

 

全日本プロレス 4.24大阪大会

チャンピオン・カーニバル優勝決定戦


 ジョー・ドーリング選手が開幕直前で脳腫瘍のため欠場となりましたが、同じEvolutionというチームで、第39代世界ジュニアヘビー級選手権者の青木篤志選手が参戦、台風の目となってリーグ戦(Bブロック)をかき回してくれました。

 大会が始まる前に、これまでの公式戦を振り返る内容が大型ビジョンに映し出されたのですが、セコンド待機していたジェイク選手が、自分の負けた試合を見つめていた表情がツボでした。

 

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 大阪大会では、公式リーグ戦が行われたあとで優勝決定戦が行われるためか、この日に組まれた公式戦は、全員が短期決戦を狙っていたように思います。

 会場が盛り上がった試合は、まずは秋山選手対ボディガー選手の試合です。ボディガー選手は残念ながらAブロック敗退が決まっていましたが、秋山選手はボディガー選手に勝てばまだチャンスがあるという状況です。ただ、ボディガー選手は地元大阪で、負け越しではなく星をイーブンにしたいところ。

 その執念なのか、開始ゴング前に秋山選手に奇襲を仕掛けるボディガー選手。もつれて場外で秋山選手が逆転。そのままペースを握るかに思いましたが、ボディガー選手が耐えて、短い時間でボディガー選手の勝利で決着。敗れた秋山選手はかなり悔しそうで、勝ったボディガー選手はかなり嬉しそうでした。当然ですが(笑)。

 

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 次に盛り上がったのは、三冠選手権者の宮原健斗選手と、大日本プロレスの関本選手の対戦です。この試合は、チャンピオン・カーニバルの中でも注目されていた試合の一つですが、一進一退の攻防のあと、関本選手のジャーマンスープレックスホールドが決まり勝利しました。ジャーマンで負けた宮原選手はかなりショックじゃないでしょうか。

 Aブロックは関本選手、Bブロックはゼウス選手が勝ち上がり、この二人で優勝決定戦となりました。この試合は、肉肉しい熱戦となり、小細工なしのパワー真っ向勝負でした。最後は、ぶっこ抜きのジャーマンスープレックスホールドで関本選手の勝利。見事、チャンピオン・カーニバル初優勝となりました。

 優勝トロフィー贈呈式では、トロフィーがでかくて、それでいて重いようで、リングに上げるのも一苦労(苦笑)。そして、トロフィーを持った関本選手をゼウス選手が肩車しようとしてあたふた。トロフィー、なんかちょっと曲がったような気がしますが(関本選手も心配そうでした)。リング上で関本選手とゼウス選手が握手。二人の選手に惜しみない拍手が贈られます。

 三冠王者にも勝利し、チャンピオン・カーニバルも制した関本選手は、5月25日後楽園ホール大会で予定されている三冠選手権の挑戦者に内定なんでしょう。宮原選手には是非リベンジしてほしいところです。

 個人的には、宮原選手の優勝の方がよかったと思います。関本選手の優勝に文句はないのですが、今の全日本プロレスの状態を考えると、宮原選手の優勝で会場が大爆発という流れがよかったと思うのです。関本選手の優勝で締められた大阪大会は、いい大会だったねという程度で終わってしまったように感じました。十分満足ではあるのですが、宮原選手の会場での人気というよりも期待感は凄いので、これをもっともっとアジってほしかったですね。

 

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 次は、5.15の同じく大阪・エディオンアリーナ第二でのファン感謝デーに参加します。

プリンスのこと

※一周忌が過ぎたということもあり、文章を見直しました。また、誤字脱字を修正しました。2017年4月24日

 プリンスが亡くなってしまった。2016年4月22日。57歳だった。この日は、あと何年かすれば、人類の音楽史にとって忘れられない日と記憶されるのではと思います。

 勝手に思っていたこと。プリンスは「死」という存在なんて関係ないんだって、そう勝手に思っていた。

 彼の生み出してきた音楽は残る、という意味なら、プリンスに「死」なんて存在はやっぱし関係ないって言えるかもしれない。でも、彼のような肉感的な要素が魅力でもある音楽家にとっては、彼が生み出してきたものではあるけどもう新しい音楽が作られないという意味においては、過去のものだけしか残らない(与えた影響の広がりという部分は除きます)という事実は、寂しいし、悔しい気もするし、やりきれない気持ちもします。プリンス自身が一番そう思っているのかもしれない。

 プリンスの音楽は、最初は嫌いというか、気持ち悪かったんです(笑)。プリンスは日本でもかなり人気がありました。当時、音楽はあまり聴いていなかったボクですら名前を知ってるくらいでしたから。音楽よりも映画、映像に興味を持っていた高校生の頃、音楽というよりもビデオクリップ(PVですねw)での映像表現を勉強したくて、ビデオクリップが流れるテレビ番組をよく観ていたから、というのもあります。

 日本では、マイケル・ジャクソンの光に対して闇、マイケル・ジャクソンの善に対して悪という対立構造が何故か作られていた、要するにライバル関係とされていたということからも、人気の高さへの証明になるのではないでしょうか。実際には、マイケル・ジャクソンとの関係性は逆なような気がしますけどね(笑)。でも、ボクは、マイケル・ジャクソンは嫌いではなかったけど、プリンスは嫌いだったんです。いや、馴染めなかった、と言った方が正解かな。「パープル・レイン」の曲にしても、なんかとっつき難かったんです。

 ボクの中でプリンスの立ち位置が変わり始めたのは、海賊盤を主に取り扱う音楽雑誌『GOLD WAX』誌で、プリンス吉田氏が連載していた記事を読んだ頃からです。連載は、プリンスへの愛情が溢れ出していて、それが故にプリンスをおちょくってるような感じがあったり、かと思うと真面目になっていたり、また、軽妙な文章ということもあり、かなり楽しんで読ませていただきました。

 そんなこんなで、プリンスの音楽を聴いていないボクがここまで連載を楽しめるんだったら、プリンスの音楽を聴いていたらもっと楽しめるんじゃないのかな、なんて思い始めました。ただ、当時はほかにもたくさん音楽を聴いていて、CDなんて1日1枚は買ってるなんていう生活だったので、プリンスを割り込ませるまでの(時間というよりも精神的な)隙間はありませんでした。

 暫くして、プリンス、というか、もうTAFKAP(The Artist Formerly Known as Prince)と呼ばれていた頃ですが、以前に発売日の告知までされていたのに直前で発売中止となっていた『ブラック・アルバム』がCDにて待望の正規リリース(マニアはブート音源でとっくに聴いている状態でしたw)という状況になりました。当時は限定発売だったと思います。

 そこで、何故かボクの心に火が付いたというか、「あ、オレ、プリンスのこと好きになるわ」って思ったんです。理由なんてありません。ただただ、そう思ったんです。だから、この『ブラック・アルバム』は買っておかないといけない、と。

 そこから、『ブラック・アルバム』の前にまずは当時出ていたCD3枚組のベスト盤『ザ・ヒッツ & Bサイド・コレクション』を買って聴いていました。特にシングルB面集がツボに入りましたが、これは先に書いた『GOLD WAX』誌でのプリンス吉田氏の連載の影響です。「なんでオレは今までプリンスを避けてきたんだろう。いや、今ここでプリンスと出会うのが宿命だったんだよ」なんてひとりごちていました。至福の時でした。

 プリンスのアルバムでは、2枚目の『愛のペガサス』(原題『Prince』で、邦題は恥ずかしいタイトルになっていますが、個人的には邦題の方を気に入っております)が特に大好きでした。また、『The Gold Experience』もお気に入りでの1枚でした。

 プリンスを聴き始めてからは、もう圧倒的な音楽の喜びに感謝しました。そして、プリンスは色々な楽器を弾きますが、特にギタープレイ、それもギターソロが大変素晴らしく、ギターソロ大好きなボクとしては、のめり込むのに十分なポイントでした。

 CD-ROMで発売されたパソコン用の作品『INTERACTIVE』を観たいがためだけに、ボクにとって初めてのパソコンとなるMacを購入したんです。あぁ、懐かしい。いや、まぁ、森高千里さんのCD-ROM『渡良瀬橋』も観たかったというのは、裏の理由だ(爆)。のちに、そういう関係の仕事を少しすることになったので、プリンスはボクの人生にもかなりな影響を与えてくれたっていうことになります。

 プリンスの音楽については、是非聴いてほしいとしか書けません。聴いてダメだったらそれでもいいし。でも、一度も聴かないというのは、かなり損だと思います。

 数十年先、20世紀後半から21世紀初頭にかけての有名・著名な音楽家として、ボクはプリンスとYngwie J. Malmsteenは残ると思います。音楽教室にバッハやモーツァルトの顔写真が掛けられていたりしますが、そこにシレっと二人は登場しているでしょう。インギーはコラで先に登場してますけどね(笑)。

獣は月夜に夢を見る

若干ネタバレしていますし、disっています。




 北欧(ノルウェーデンマーク?)の片田舎が舞台で、閉塞的で退廃的なムードを醸し出してるのはなかなかいいのですが、大きくは動かないストーリー(ジワジワ系のストーリーと言った方がいいのかな)とが、うまく合わされていなかったように思いました。映画の上映時間は1時間半もないのですが、退屈でした。単に最後までダラダラと退屈な内容にしてしまっただけなのが勿体ないというか。閉塞的で退廃的なムードの映画って、一歩どころか半歩でもズレると、ただただ退屈だったっていう落とし穴に落ちちゃうんですが、この映画はその典型的なものだったように感じました。

 終盤の主人公の爆発も、なんとも微妙というか、弾けきれてないというか。どうして弾けきれなかったのかって考えたのですが、説明不足というか、主人公を含めた登場人物や周辺事情、環境を含めて、描写不足なところが多いのがやっぱり大きな理由になるのではないかなーと。

 主人公の母親は、自殺だったのか、それとも村の人に殺されたのか。この描写が曖昧なので、主人公の最後の殺戮にプラスαの要素を加えられなかったこと。

 船に乗っていた人達は、主人公の母親が過去にしでかしたことが理由なんでしょうけど、主人公を幽閉しようとしたのか、それとも殺そうとしたのか、はっきりしなかったところ。

 船に乗っていた人達の仲間の一人(主人公と同じ職場のいじわる男子)が、主人公を襲って(というか嫌がらせをして)逆に殺されてしまったことに対しても、それを知らないはずはないだろうに(主人公のカレシが知ってることからしても)船に乗っていた人達の危機感が薄いこと。

 主人公の母親がロシア船籍の船に幽閉?監禁?されていた事件について、もう少し踏み込んだ状況の提供はほしかったこと。

 父親は母親の病気を知っていて、それを抑えるために全身不随になるように薬を定期的に注射し、母親は傍目から見ると全身不随で車椅子生活を送っているという体の割には、主人公がピンチ(?)だったとはいえ、医者を襲ったということはどう説明するんだろう。薬が切れていたわけでもなさそうだし。

 主人公の父親も、何を考えているのかよくわからない描き方だったような。トラブルを起こしたくないということからの行動なんだろうけど、家族を愛するためなのか、自分の保身のためなのか、どうもその境界線がわからなかったというか。

 観客に想像してくださいというだけの投げっ放し系の映画は個人的に大嫌いということもあるのですが、最初にも書きましたように閉塞的で退廃的なムードにしてしまったこととストーリーの展開が弱いということも相まって、中身が薄いっていう感想しか抱けませんでした。

 まぁ、大人への成長という部分を、化け物という要素を使って表現したかったのかもしれませんが、なんか化け物という対象へのリスペクトは感じられませんでした。そういう人が化け物っていう要素を使うなよって、化け物映画が大好きな自分としては思うわけですよ。

 化け物映画でよく(人間の)ドラマ部分が弱かったって言われる映画は多いですが、これは逆に化け物の殺戮部分が弱かったっていう映画とも言えるかも。

 

僕だけがいない街

ちょっぴりネタバレしています。disっています。




藤原竜也だけがいない街

 予告編で面白そうだったので突撃しました。タイムリープものだからなのか、地雷臭はかなりしてましたけどね……。

 原作未読ですが、原作の幾つかの場面をただ繋げてみただけなのかなと思いました。ぶつ切り感が強いというか。それはタイムリープものであるというのも影響はあるのでしょうけど。

 登場人物が頭が不自由な人が多いように思えるのは、製作陣のレベルの低さを反映してるんだと思います。

 ミッチーが出てきた途端、この人ラスボスだろって一発で分かる配役はどうなんでしょうね(笑)。

 藤原竜也は凄い役者ですが、この映画にはミスマッチだったように思います。藤原竜也という役者は劇薬だと思うのですよ。うまく使っていかないと崩壊するしかないっていうくらいの。なのでこの映画は、展開がうまくまとめきれてないから余計に本来の意味でぶっ飛ばされちゃったんですよ。

 藤原竜也は、役の色に染まるというタイプじゃなくて、役を藤原竜也の色に染めるというタイプだと思うのです。織田裕二石原裕次郎、三船三郎ら、スターと呼ばれる役者ってこういうタイプだと思うのですが、ただ違うのはオーラがないんですよ。いや、貶してないですよ。だからこそ、引き込まれるんですよ。で、うまい役者だったって錯覚するんです(←褒めてます)。

 あ、映画の話でしたよね。

 小学生に戻った主人公が、ミッチーに川に落とされて現在(2006年)に戻ってきますが、え?どういうことなんですか、あれは。主人公が生きているということは、ミッチーを捕まえられるじゃん。ということで、配役と物語の進行でミステリーな要素をなくしてしまうのはどうなんでしょうか。

 

ボーダーライン

かなりdisってますし、ネタバレもかましてます。





 視点の固定化に失敗した映画だったように思います。大きく分けると、主人公(エミリー・ブラント)と、嘆きの検察官(いいネーミング)と、メキシコの制服警官の視点があるのですが、前半から中盤はきちんと主人公の視点というもので固定されていて、それによって、張り詰めた空気感、緊迫感、そして乾いた風景が相まって、いい相乗効果をもたらしていたと思うのです。

 しかし、物語面での一応の終結をもたらすイベント(ラスボス的な人物の暗殺)を担っていたのは嘆きの検察官であり、物語を中盤あたりから終盤に向けて動かそうとしたときに、どうしても嘆きの検察官の側面を描く頻度が多くなり、結果、主人公の扱いがぞんざいになってしまったように思います。それによって物語の展開がどうにも平坦な形に見えてしまい、終盤に向けてかなりの失速をしてしまい、そのままダラっと駆け抜けて映画は終わったという印象となりました。

 メキシコの制服警官は、家庭ではサッカー好きな息子に優しい、どこにでもいる警官という描き方をしていて、そういう警官でもメキシコではヤクの運び屋をやっているんですよっていうことを提示するのはいいのですが、あまり画面に出てこないし、はっきり言って嘆きの検察官がラスボスの家に行くまでの道具扱いになるだけの需要に、視点を有する重要な立場の登場人物を出す必要があったのかどうか疑問です。

 もう一人、主人公の相棒男性がいるのですが、この人もいらなっちゃーいらないんですよね。何か主人公が大きく変わるようなきっかけを与えるわけでもないですし。

 映画としては、立場や環境等が全く違う登場人物の視点から麻薬カルテルの実態を通じて、現実世界を表現したかったため、比較対象としての幾つかの視点はほしかったことから、大きくは三つの視点を用意したんだと思うのです。群像劇とするのは方向が少し違ったんでしょう。

 もしかして、かなりカットされてしまって、結果的に視点がボヤけてしまうということになってしまったんだろうか。

 映画的な盛り上がりは、嘆きの検察官の過去(妻と娘がラスボス一味に殺される)が判明してからのその復讐劇となるのですが、それによって主人公は置いてけぼりという事態になるというのは、物語的なリアルさを求めるのか、映画としてのウソを盛って高揚させるのか、という選択で前者(よりかな)を選択したんでしょう。個人的には映画を観に行ってるので、映画としてのウソをついてほしかったです。

 トンネルの場面のところで、赤外線映像を使ってPOV的な映像をやったりしてましたが、せっかくの乾いた映像をそれまで見せてきたのに、この選択が雰囲気すら台無しにするような形となっていて、ここで一気にテンションが切れました。まぁ、ここでアクセントを付けて、物語の展開の視点が変わりますよって言いたかったんかなと想像はしますが、映画全体として考えると良い効果はもたらさなかったように感じます。

 最初の、麻薬カルテルが人質を取っている家への突入劇は面白かったです。ホラー映画の画ですよ、あれは。掴みはかなり良かったんですよね。死体が埋められている壁の描写や、爆発に巻き込まれて吹っ飛んだ腕とか。

 最後は、利用されたというよりかは騙されたみたいな格好になった主人公が、全てを話すと喚きちらして、嘆きの検察官に何も喋らないと証明書に署名するか、自殺を偽装して殺されるか選べと言われ、証明書に署名して、それでもムシャクシャする主人公は、帰ろうとする嘆きの検察官に向けて銃を向けるが結局打てずに終了という終わらせ方は良かったとは思います。主人公視点ではバッドエンドですけど。よくある、自分に能力はないのに自分はできると思い込んでいて、頭が固く他の考え方を受け入れられず、全体を見渡して行動できないイライラする系の主人公だったので、溜飲は下がりました。

 嘆きの検察官が、主人公に対して、「お前は狼じゃない、小さな街にでも行って、法律に守られて小さくまとまれ」(by 本城裕二)と言い捨てるところは良かったですね。嘆きの検察官視点ではハッピーエンドですね(笑)。

 メキシコの制服警官の視点は、バッドエンドでしかないですね。殺されますし。(映画としてもラストの場面である)息子のサッカーの試合(練習試合かな)中にも銃撃戦の音は聞こえて、一瞬試合は止まりますが、またそれも日常ですという感じで試合が再開されるという場面は良かったです。この場面を撮りたいがためだけに、メキシコの制服警官を(映画の中での)視点を持つ登場人物として用意したのかな。それなら、もっと彼を描かないとダメだと思います。カットされたのか、カットせざるを得なかったのか、もともと撮ってはいなかったのか、どうなんだろう。

 

仮面ライダー1号

disってます。シンプルにdisってます。


 さて、今回も不真面目に作ってるなという感想が真っ先に出てしまう体たらくでしたね。

 エンドロールを眺めていて、「企画 藤岡弘、」って文字列が目に入ってきて、ひっくり返りそうになりましたよ。ヒーロー演じた俳優による、昔に演じた役の晩節を汚すという行為って、なくならないんですかね……。誰得映画なんだよって思ってたんですが、藤岡弘、得映画だったんですね。

 脚本は全ての破壊者井上敏樹大先生でした。そうか、脚本が敏樹なら、全ての権限は敏樹(仕出し弁当の種類まで決める脚本家ですからw)ですよね……(マテ)。

 アクションはよかったですよ。でも、戦いを最後まで見せずに(形勢が決まっていたとはいえ)ぶつ切りになって次の全く関係ない場面に移行というのが、覚えているだけでも3回ありました。時間の関係で切るならもっと他の場面があったでしょうに。

 藤岡弘、とヒロインのイチャつき振りは、観ているこちらが恥ずかくなって目を背けたくなりましたので、自重してください。ヒロインって、藤岡弘、氏からしたら曽孫世代じゃないですか。

 藤岡弘、氏も自らアクションしてたりして、70歳という年齢の割には頑張ってるなとは思いましたが、日本には同じ歳なのにもっと動ける倉田保昭という化け物(←褒めてます)がいますので、ちょっと分が悪かったですね。新しい仮面ライダー1号の中も、全編に渡って藤岡弘、氏は入ってないですよね、おそらく。

 長澤奈央さんは、敵幹部の中で他の二人がすぐに怪人体になってスーツアクターに交替なのに、生身でアクションを頑張っておられる姿には拍手喝采でした。ママになられましたが、美貌もスタイルもそのままなので、もっともっとアクション映画に出ていただきたいものです。

 一番びっくりしたんがですね、仮面ライダーゴーストの中の人の演技ですよ。仮面ライダーゴーストは第1話しか観たことなかったんですが、そのときはどえらい演技やなって思ったんです。それがですよね、今回の映画では普通になっておられるではありませんか。仮面ライダーは、日本のテレビドラマでは長い部類の連続出演可能なコンテンツなので、そこで積まれた経験が活かされているのでしょうか。

 エンディング曲を野口五郎が歌っているのもビックリ。彼のギタープレイは大好きです。

 

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生

簡潔にネタバレしてますし、disっちゃってます。




 3Dで鑑賞したかったのですがスケジュールが合わず、でも公開日には観たかったので、仕方なく2Dで観ました。面白かったら、また観に行ったらいいんですもんね。うん、もう映画館へは観に行かないと思いますね(笑)。

 映画は、ジャスティスリーグへ向けての、もっさりしたプロローグというか、ちょっと長めの第1話というか。そんな感じでした。

 バットマンのトラウマとネガティブな思い込みが、レックス・ルーサーの悪巧み(大いなる意志?)と相まって、スーパーマンを苦しめ、結果的にとうとうスーパーマンは死んでしまいましたというお話です。1%でも敵になる蓋然性があるなら、今のうちに殺しておくというバットマンの思想、とっても病んでますし、あんたの方が悪人だよ(笑)。

 観客の皆さんはスーパーマンは死んだとは思わないだろうし、最後のカットでも、スーパーマン(というか、クラーク・ケントだわw)の遺体が入れられている棺の上にかけられた土粒が少し動き出して終了という画なので、やっぱり死んではいないわけです。核ミサイル一発の直撃くらいでは、スーパーマンは死にませんでしたし。

 この映画で一番素晴らしかったのは、ガル・ガドット演じるワンダーウーマンですよ。ガル・ガドット自身の出番は少ないですし、ラストバトルにしかワンダーウーマンとしては登場しませんが、それだけでも十分に楽しめます。本作はワンダーウーマンのための映画だと言っても過言じゃありません。

 ドゥームズデイ対スーパーマンバットマン、ワンダーウーマンの戦いで、一人戦力外として取り残されてるような感じのバットマンに哀愁を感じました。スーパーマンとのタイマンで、地の利と用意周到な罠とクリプトナイトで、ロイスが止めに来なければ殺せたってところまで追い詰めた直後(スーパーマンは本気ではなかったですけどね)の戦いだっただけに、余計にそう感じてしまいました。所詮、普通の鍛えた人間は、気合い入れてお金もかけて頑張っても、ナチュラルチートな性能のスーパーマンやワンダーウーマンとかの足元にも及ばないんですよ……。

 トップクレジットは、バットマン役のベン・アフレックで、ほぼ終盤まで彼の視点で物語は動きます。スーパーマンが主人公だった『マン・オブ・スティール』の続編ではあるのですが、本作の主人公はバットマンでした。『マン・オブ・スティール』と本作で、ジャスティスリーグのメインであるバットマンとスーパーマンを紹介しましたという感じでしょうか。

 レックス・ルーサーが調査していた、ワンダーウーマンをはじめとしたメタヒューマンズ(フラッシュ、アクアマン、ビクター・ストーン)は、ワンダーウーマン以外は今回は顔見せ程度でした。物語にも一切絡みません。ただ、スーパーマンバットマン以外にも超人はいますよっていう設定は、wktkしますね。

 レックス・ルーサーが何をしたかったのか、その理由や動機、キッカケみたいなものは、本作では描かれていなかったと思います。狂人としての彼が引き起こす厄災といった抽象的な描き方だったと思います。次回作以降、彼がどうなっていくのかも楽しみです。演じたジェシー・アイゼンバーグは、劇中はずっとロン毛でしたが、最後は収監されてそこで丸刈りにされちゃいます。

 ベン・アフレックバットマンは、雰囲気はいいんだけど、動きがトロいというか。わざとやってる部分もあるんだろうけど、重さを感じるというよりかはトロさを感じました。それに、スキがあり過ぎる戦い方なんですが、これはアクションコーディネートの問題なんだと思います。

 それにしても、スーパーマンは素顔だし、バットマンは顎を出してるしで、誰が中の人かって一発で分かりそうなもんなのに、米国人は全員相貌失認なのかって思っちゃいますよ(←マテ)。

 

ロブスター

最後をちょこっとネタバレしてますし、disっています。




 自称映画マニアを狙い撃ちにした、あざとい映画ですね。この映画を楽しめないと映画マニアとは言えないよっていう無言のオーラ。このオーラを醸し出してる点だけは賞賛します。

 最初の場面からハッタリかましてきてるんで、あぁ、昔のATGをもっと拗らせて、巧妙にオサレな雰囲気で包んで拗らせたものを隠すという映画だなと思っていたら、そのとおりでした。知的欲求を刺激させるやり方というか。

 分かりずらくしたら芸術になるわけではないし、そもそも芸術が必ずしも素晴らしいわけではないということに気付かない、芸術家ポーザーが多過ぎます……。あ、ポーザーだから、そうなるのは仕方がないのか……。

 映画としてはつまんなかったけど、映像の質感は凄く良かったです。また、役者陣の演技も素晴らしかったですが、特にベン・ウィショーの演技が素晴らしかったです。彼があんな下品な胡散臭さを、爽やかにさり気なく醸し出して演じられるとは。元々うまい役者さんだとは思っていましたけど、さらにボクの中での評価は急上昇しました。

 コリン・ファレルは、あれ、わざと太ったんですよね。勿論、彼も素晴らしかったです。存在感がないようであるような難しい役だったと思います。自己主張しないけど自己主張してる役というか。

 映画を観ている間気になっていたのは、そもそも、ロブスターって動物なのだろうか。ちゃうよね。

 最初は、コリン・ファレルは独身者のままでロブスターになりたいのかなって思ってたら、なんか違ったし。コリン・ファレルに好意を寄せてきてたおばちゃんを無視したら、そのおばちゃんが宣言通りに自殺を図って、そこからやっぱりロブスターになりたくない、人間をやめるのが怖くなったということなんだろうか。ここら辺りは観客の想像じゃなくて明確に提示してほしかったけど。してたのかな。

 最後も、コリン・ファレルと一緒に逃げた女性がレア・セドゥの策略に嵌って盲目となったことで、コリン・ファレルも同じようにナイフ(バターナイフじゃなくて、肉を切る方のナイフねw)で自分の目を刺して盲目になろうとしてたけど。あれ、最終的には目を刺さずに逃げたんだろうか。コリン・ファレルのあの役ならそうしたような気もします。

 それとも、エンドロールで波音が聞こえますが、ロブスターになって海に行ったってことなんだろうか。いや、やっぱり、コリン・ファレルは逃げたな。盲目になるくらいなら、ロブスターの方がいいやってなったかもしれない。つか、なんで一緒に盲目にならないといけないのかが分からんわ(笑)。

 っていうか、この映画を真剣に考えても仕方がないですわ。危うくボクも策略に嵌ってしまうところでした……。

 

帝戦 BAD BLOOD

愚直にネタバレかましてます。




 原題は『破門 BAD BLOOD』で、原題の方が当然映画自体の内容を表してるというか、「BAD BLOOD」という言葉が一番この映画の内容を表しています。

 群像劇ではありますが、一応ヒロイン扱いのオードリーという女性が主人公というか、中心となっています。さらにこのオードリーはラスボスでもあるので、主人公は実はラスボスですという珍しい映画でもあります。

 映画を観ている限りでは登場人物の相関関係は分かり難いのですが、アンディという犯罪組織のボスには異母兄弟姉妹がたくさんいて、アンディが長兄です。ラスボスであるオードリーと同じ母親を持つ弟以外の異母兄弟姉妹は犯罪組織に関わっているようで、前のボス(異母兄弟姉妹の父親)の子分らや、異母兄弟姉妹にとってのおばさん、前のボスの妾さん(ちょっと差別用語かもしれません。ごめんなさい)らでファミリーが構成されているようです。

 異母兄妹や幹部の皆さんのほとんどは(女性を除いて)、格闘技の素地があってかなりのツワモノ揃いです。

 物語は、偽札の原版(もしかして本物の紙幣の原版かも)を、FedExを偽って強奪しようとしたアンディさんご一行が、警察に追われているところから始まります。アンディさん以外は逃げ果せたのですが、アンディさんだけは捕まり、原版は警察に取り戻され、挙句の果てにあっさりとアンディさんは死刑にされちゃいます。

 って、中国(香港?)の死刑って、一般公開されてるんですか。地方の小さな球場みたいな場所で死刑は行われていましたが、普通に野球観戦しにきました風の若者とかが呑気に死刑の場面を見てましたし。なんか、リアルにそこは怖かったです。

 アンディは死刑となる前に、弁護士と妹のオードリーに遺言を託します。これが事件の発端です。

 アンディの死後、残されたファミリーの多数決でサイモン・ヤム(一応トップクレジットで、実は前のボスの養子で、役名がファンキーですw)が組織のボスになります。

 ここから、組織を実は牛耳りたかったオードリー(遺言の遺産を組織に渡したくなかったっていうのも理由かな)と、他の異母兄弟姉妹との待遇の差に不満を持っていたカーフ(アンディ・オンが演じています)が密かに動き出します。

 オードリーは、母親が同じである弟(喘息の持病もあり、サンフランシスコ在住で、カタギの仕事をしている模様。組織とは距離を置きたいようです)を居住している米国から、アンディの遺言はファミリー全員が揃っていないと開封されないという理由で呼び寄せ(実は弁護士と組んでの嘘で、その弁護士はおそらくオードリーに自殺に見せかけた形で殺されちゃいます)、車に爆弾を仕掛けてぶっ殺します。

  カーフはカーフで今が組織での自分の地位向上のためのチャンスと、異母兄弟姉妹、幹部らを暗殺(という割には派手ですがw)しまくります。

 カーフは、中盤あたりでオードリーに共闘を呼びかけられて、オードリーの野望(組織を乗っ取りたい)を薄々感じますが、ここでカーフ自身はボスにはなる気はなかったような描写です。異母兄弟姉妹や幹部らを始末したあとは、オードリーがボスでもいい感じだったようです。そこは、おそらく、父親に認められてこなかった異母兄弟姉妹同士だからという感情と、前々からオードリーがボスであったらという気持ちがあったようです。

 カーフは、発話障害の孤児の女性を養って(?)いて、この女性もカーフほどではないですが、かなり強いです。ファミリーの中では、カーフが一番強いっぽいです。ほんとは、オードリーが一番強いのかもしれませんが(笑)、正面切ってカーフと戦うことはせずに殺しましたからね、オードリーは。

 オードリーとカーフによって、異母兄弟姉妹、幹部らが次々と殺され、最終的にはオードリーとサイモン・ヤムの二人になります。あ、格闘技の素地のない女性達は、オードリーが正体を現したあとで、オードリーの手によって殺されました。

 オードリーは、自分を疑うサイモン・ヤムとタイマンで決闘し、圧倒的強さでサイモン・ヤムをぶっ殺します。オードリーは、少しでも驚異となる者を排除したいという理由で、異母兄弟姉妹を暗殺していたのです。

 ラストは、発話障害の女性がカーフの敵討ちとばかりに、組織の本部に殴り込み、手下達を苦戦しながらも倒し(何故真昼間に正面突破なんだよw)オードリーのところにたどり着きますが(つか、なんでオードリーがカーフを殺したってわかったんだよ)、オードリーは彼女よりも圧倒的に強く、あっさりと倒します。ただ、発話障害の女性は手榴弾を持っており、勝ち誇ったオードリーに突っ伏しているところを笑いながら蹴られているときに抱きついて、一緒にあぼんで映画は終了です。救われね〜〜(笑)。

 途中、コメディタッチな場面があったりするのですが、もっとどシリアスな展開であってほしかったですね。アクションは素晴らしく、また、本性を現したあとのオードリーの傍若無人ぶりもよかったです。

 

NINJA THE MONSTER

ラストのネタバレ及びかなりdisっております。





 ディーン・フジオカ氏のことはほとんど知りませんが、忍者と名付けられている映画なら観るしかないでしょう。ということで観てきました。

 これは酷い。名作『太秦ライムライト』のスタッフが作った映画というのを観終わったから知りましたが、あちらの映画はマグレだったのかと思うくらいの、粗悪な商品となっていました。よかったのは、画のトーンと雰囲気くらいでした。

 肝心のアクションがきちんと画に捉えられていない。お話というか展開がメチャクチャ。盛り上がる場面がない。悪いところを挙げていけばキリがないでしょう。

 低予算だったのかもしれません。でも、この映画の悪いところって、予算に左右されるところというよりかは、頭を使って回避というか、よりよいものにしていけるところが多いんじゃないかなって。これって、製作陣の怠慢だと思うのです。

 アクションにしても、ディーン・フジオカ氏がアクションできないから誤魔化してるのかと思ったら、きちんと刀を振り回している場面もあったりして、全編でそういうのを見せないでどうするのよって思ったり。

 物の怪(エイリアン設定なのかな)と戦うようで、なんかほとんど逃げてるだけだし、戦わないで忍者と言えるのかとかさ、ディーン・フジオカ氏のいでたちがどう見ても侍ではないだろうに、忍びとわかってビックリする登場人物達とか。ギャグですか、それは。見た目でわかるだろ(笑)。

 物の怪は水を吸い上げているみたいで(湖が干からびるくらい)、物の怪の移動の跡には水たまりができて、それが物の怪がいる証拠だ、みたいな取り扱いをしているのに、物の怪がいっぱいいるよーって言ってた廃墟のお寺の横の湖は干からびてなかったり。優雅に舟の旅をしているんじゃねーよ。

 山の中で新興宗教にはまってるかのような村の老人グループに、忍びと腕自慢(ホラかもしれないけどw)の侍が互角の勝負をしてたりとか。多勢に無勢で、殺さずな戦闘だったので、それらを加味すればリアルな描写なのかもしれませんが、映画的にはそこはスカっと圧倒的に倒すべきでしょう。

 物の怪も、ヒロインの懐刀でバサっと顔(?)の先端を切られたくらいで戦意喪失してお星様に帰るくらいのレベルの弱さなのに、それまでも侍とかを襲ってて、刀でも切られたりしていただろうに。それが、ちょっと切られたくらいであっさり撤退っていうのはどうなのよ。物の怪が自身の身を守るために水を防具変わりにしていて、たまたま、ヒロインの攻撃が弱点的な部分にヒットした、っていう解釈はできるけど。

 終盤で、忍びと物の怪との戦闘かと期待したのに、ディーン・フジオカ氏が物の怪とがずっと見つめあってるだけっていうのもね。そこは、アンタが戦わないと。

 結局、物の怪は宇宙からの外来種らしいです。どうして地球に訪れたのかは不明。どうして人間を襲っていたのかも不明。まぁ、それらは不明でもいいですけど。

 と、もう、トンデモ、グダグダな展開のまま終了します、この映画。予算もなくて時間もなかったのかもしんないけど、観客をバカにするのも大概にしていただきたいです。

 

オートマタ

えっとネタバレしつつ、disっております。




 バンデラス主演で、終末世界でロボットが人類に対して抵抗する、なーんていう映画を見逃すわけにはいかないじゃないですか。

 うん……。確かにそういう内容ではあったけど……。

 最初は、ブレードランナーっぽい雰囲気もあって、これは面白いんじゃないか、と思いましたが、なんだろう、この観終わったあとの喪失感は。映画のテーマに感化されての喪失感じゃなく、これじゃない感の成分がかなり混ざった喪失感と言うのが正確なのか……。

 後半はほとんど砂漠が舞台で、喉がかなり乾きました。心も乾いていたのは言うまでもありませぬ。

 ロボットが急速な学習で人類の英知というか思考を超えるわけですが、そういう視点というか考え方がもう人間っぽいというか。人間だから仕方がないんですけどね(笑)。劇中でもロボットに、ロボットは人間が作ったものとか喋らせて、そういう部分は仕方がないんですよって開き直っていますが(←思い込みw)、どうもそこに狭さというか、感情や感覚や考え方の窮屈さに辟易としてしまうのです。

 この映画世界でのロボットは、人間に害を加えない(これが第一プロトコル)、自己修復(ロボットが自らを、ロボットが他のロボットを修理しない)はダメ(これが第二プロトコル)という設定がされているのですが、第二プロトコルを破ったであろうロボットが出現。

 バンデラスはロボットに関係する事故とかの保険屋で、望まなくして事件に巻き込まれていき、誤解が誤解を生み、人類に反旗を翻したと勝手に思われてしまったロボット達の仲間扱いされちゃいます。所謂、巻き込まれ型の主人公です。バンデラスは家に帰りたかっただけなのに。

 ロボットのプロトコルを破るのは人間では無理だという設定です。それは、最初に作られたロボットにはプロトコルの設定がなく、8日目までは人間と愉快にお話していたのですが、9日目に人間の限界を突破してしまい、ロボットと人間との間に会話は成立しなくなりました(人間はロボットの思考に追い付けなくなったのです)。それにビビッた人類は、最初のロボットに、これから作られるロボットにプロトコルの設定を依頼したのです。だから、人間にはそのプロトコルを改ざんしたりなんていうことは無理なのです。

 その事実を知ってるロボット会社のボス(こいつがラスボス)は過剰反応し、自己修復してるロボットと一緒に逃げたと思い込んでるバンデラスを追ってロボット諸共始末するように、子分の殺し屋さん達に命令します。それに巻き込まれるバンデラスの上司や配偶者(というか彼女なのかな)と生まれたばかりの娘。散々です。

 バンデラスは自分の仕事をしてただけで、報告書を書くために上司の命で調査していただけなのに。まぁ、バンデラスがロボットのプロトコルを改ざんしたであろうとアタリを付けたモグリのロボット技術士が結構な腕前だったようで、それ故にラスボスが過剰反応しちゃったわけですが。

 モグリの技術士はスラム街に住んでいるのですが、その技術士を子供に銃を撃たせて殺す場面は良かったです。子供が簡単にヒットマンになっているというところと、子供がノリノリで一緒にいたバンデラスも殺そうとしているところから、スラム街の貧困さやそれ故に子供ですらちょっとした報酬で人殺しを平気でするような世界というのを浮き彫りにしていたところですね。この映画で唯一と言ってもいいくらい良かった場面です。こういう場面を良かったと思うボクは相当荒んでるな……。

 映画の設定としては、最初のロボットが何故か砂漠の中で未だに活動されてまして、そのロボットが第二プロトコルを改ざんして、自己修復するようなロボットを人類が住んでる都市に投入してたわけです。その目的はよくわかんないのですが、虫型のロボットを作る部品集めのようでした。としか思えなかったんですよ……。うん、ほんまによくわかんない。

 最初のロボットにはプロトコルの設定はないので、人間に直接危害を加えることはしませんでしたが、人間を言葉で煽ってさらに怒らせるという特技は持っており、それを遺憾なく発揮した故に銃で撃たれてお亡くなりになりましたが、これはギャグ場面だったのでしょうか。

 最後、バンデラス一家はどこに向かったんでしょうかね。気になりま、せん。ごめん(笑)。

 「人類」と「人間」という単語がいっぱい出てきますが、特に使い分けてはおりませんし、どちらの単語を選択していることに意図は特にありません。

 

マギー

久々にかなりdisっています。ラストのネタバレもしています。




シュワちゃんとゾンビという取り合わせ。期待はしちゃいますよね。ゾンビをモンスターというカテゴリーの一つだとしますと、シュワちゃんは過去にもプレデターというモンスターと戦う映画に出ているわけですし、相性は悪くはないと思いますし。

 結論から言えば、なんでシュワちゃんをキャスティングしたんだよと。シュワちゃんである意味はなかったような気がします。

 シュワちゃんなら今でもギャラは高いだろうし、こういう規模の映画ではギャラだけで製作費をかなり圧迫しちゃうと思うのですよ。シュワちゃんがギャラを下げたとしても、大変であることはあまり変わりはないようにも思いますし。海外では、俳優のギャラを下げるって、協会とかの関係もあってなかなか本人(や周りも含めて)の意思だけでは難しいという話も目にしたことがあります。それに下げ幅も決まってるでしょうし。って、シュワちゃん、プロデュースもしてたのか。それならギャラ問題はなんとかなるのかな。どうなんやろう。

 演技力、存在感、そういったものをある程度は備えていて、尚且つ突出した部分があり、数値的にはアンバランスなんだろうけど、それを個性というパッケージにまとめあげて提示できるのが、スターという役者なのだと思います。シュワちゃんは演技力の数値は低いですが、存在感の数値は高く(別格ですね)、紛れもないスターであるわけです。

 ですがこの映画でシュワちゃんの役に求められていること、そして、シュワちゃん自身が取り組もうとしたことは、シュワちゃんの役者としてのアピールポイントである存在感に比重を置いたものではなかったように思えるからです。ハッキリ言えば、演技力を求められる役だったと思うのです。

 映画の構成もまずいというかなんというか。ゾンビ感染ウイルスが発生した状況で、頭がゆるい娘と、無責任な父親が繰り広げる、ゾンビ感染二次被害はこうやって起こりますよっていう映画としか思えない作りになっちゃってるんですよね。

 映画を観終わったあとチラシを読んで初めて、娘がゾンビに噛まれて感染して家出した設定であるということがわかりましたよ。いやいや、映画の冒頭の見せ方ではわかりませんよ。単なるゾンビが発生した環境下で家出して、案の定ゾンビに噛まれてしまったバカ娘にしか見えません。セリフとかナレーションでそういうことを言っていたのかもしれませんが……。

 この映画で、どうしてシュワちゃんがそういう行動を取ったのか(娘にとっては義理の母親、娘にとっては腹違いの弟と妹をうっちゃっても)ということを観客に知らしめる大きなポイントであるので、ここはもう少しわかりやすく説明的にした方が効果的であったでしょう。

 シュワちゃんと娘の二人にフォーカスする映画ではあるのですが、シュワちゃん中心に進行するかと思いきや、娘中心に移行したり、それがまたスムーズでなく唐突だったりと、脚本段階からなのか、きちんと何を見せたいのか、何に観客の視点を注力させたいのかが考えられてなかったのかなと思わざるを得ません。

 娘の好きな同級生も感染しちゃってて、とうとう人としての意識もなくなろうかというときに自分の部屋に立て籠もり、娘が心配してその場所に赴くという場面があります。その場面のかなり前に、左手の人差し指が感染して腐ってしまって(多分)、自分で包丁で切り落とすという場面があったのです。しかし、赴いた場面では見事に復活してたんですよね、人差し指(笑)。撮影途中で構成の順番を変えたのか、それともただのミスなのか。この映画、こういうボアが多いというか、製作に集中してなかったのかなと思えてしまうのです。

 先にも書きましたが、シュワちゃんは再婚してて、義理の母親と腹違いの弟と妹がいるっていう設定なんです。娘の産みの母親は病死(?)という設定です。義理の母親はちょこっと絡んできますし、段々とゾンビ化していく娘に恐怖を感じるという部分で、シュワちゃんとの対比としては重要な役なんですが、その設定を活かしきれていないというか。

 最後は、ゾンビ化待ったなしまできてしまった娘が、寝ているシュワちゃんのおでこにキスをして、二階建ての家の屋根から飛び降りて自殺します。っていうか、自殺を図るだけで、あの高さとゾンビ化している状況からは、死ねないと思うんですけどね(笑)。娘が助からなくてゾンビになるよっていう終わらせ方だけはよかったですね。

 幼い弟と妹がいる方が、大人よりかは警戒心も低いでしょうし、そういうところを描写してドラマに厚みと恐怖を足せたと思うのですが、早々に映画からは退場しちゃうし(祖母の家に避難って、娘のこと信用されてねぇw)。

 全体的に、もっと設定も人物配置もスリムにした方がよかったと思いますね。どうしてもシュワちゃんを使うのなら、ゾンビとの対決をアクションを絡めて、全編に満遍なくほしかったところです。

 シュワちゃんのコアなファンで、コレクター気質がある人以外は観ないでいいと思います。娘として守るのか、ゾンビとして殺すのかって予告編で言ってますが、娘として他人の迷惑とか(今の家族の迷惑も、だw)を省みず守るだけです(爆)。

 

全日本プロレス 2.21大阪大会

 本大会は、Jr. BATTLE OF GLORYの優勝決定戦と、世界タッグ王座の防衛戦が目玉となっています。

 昨年12月の同会場での世界最強タッグリーグ優勝決定戦よりも客入りはいいように見えました。会場は満員で、ざっと数えてみたところ500人強くらいの入りだったと思います。主催者発表は681人だったようですが(笑)。

 ファンクラブイベントは、新しく取締役となった大森選手との名刺交換会。緊張しましたが、無事に大森選手の名刺をゲット。だからどうした、とか、そんな野暮なことは言わない約束だぜ。

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 各試合結果は、ファンクラブサイトでご確認ください。

お知らせ詳細 - 全日本プロレス公式ファンクラブサイト



 Jr. BATTLE OF GLORYは、Aブロックは青木選手が勝ち上がりましたが、Bブロックを勝ち上がった橋本和樹選手が怪我のため、急遽本日の第一試合でBブロックの勝者を決める試合、佐藤光留選手対丸山敦選手が行われました。ブロックでの公式戦では佐藤選手が勝ちましたが、この試合も佐藤選手が勝利。丸山選手を応援していただけに残念でした。

 Jr. BATTLE OF GLORYの優勝決定戦は、下馬評どおりの青木選手の優勝で幕を閉じました。最初から決まっていたんでしょうし、本来の対戦選手の怪我もあったというのもありますが、どうも盛り上がってなかったというか、団体が盛り上げようとしてなかったように思います。やった意味がないような。試合自体はどれも素晴らしかっただけに、残念というよりも、寂しい気持ちが強いです。

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 それに、所属選手(専属フリーですが)でのJr.要員というと、優勝し王者になった青木選手、リーグ戦には参加しなかったGAORA TV王者の中島洋平選手、SUSHI選手くらいなんですよね。青柳選手はヘビーでやってるし、今回の優勝決定戦の相手だった佐藤光留選手は、青木選手と同じチームではありますが、所属選手とは違いますしね。個人的には、Jr.王座は当分封印でよかったと思います。

 それに、個人的にヘビーだ、Jr.だと分ける意味があるのかという疑問もあります。特に体重のみで分けるのは意味はないと思いますし、ヘビーで戦ってる選手も厳密に体重で分けたらJr.という選手もいますしね。

 メインの世界タッグ戦(Jr.リーグのシリーズで優勝決定戦も行われる大会やのに、なんでその試合がメインと違うねんとは思いますけどね)は、昨年末にタッグ王者になったザ・ビッグガンズ(ゼウス、ボディガー組)と、今年から本格始動の今風チームであるNEXTREAM(ネクストリーム)が対戦。NEXTREAMは、ワイルドバーニング(秋山選手、大森選手の役員コンビ)との挑戦者決定戦に勝利しての挑戦です。

 NEXTREAMは、最年少三冠王者となった宮原健斗選手とジェイク・リー選手の二人ですが、コンビネーションが日に日に良くなっていってるんですよね。特に、ジェイク選手の急成長振りが素晴らしいんです。今回も、あわよくばチャンスはあるよな、と思っていました。

 対するザ・ビングガンズは、大阪が地元ということもあり会場人気も高く、ゼウス選手は三冠決定戦で宮原選手に敗れているだけに、タッグのベルトまで落としたくないでしょうからモチベーションは高いでしょう。長年組んでいるタッグチームだけに、コンビネーションも抜群です。そして、ボディガー選手は最近は試合巧者振りが見られるのと、空手のハイキックムーブが素晴らしく、今まで以上に侮れない選手に変貌を遂げつつあります。

 宮原選手の会場人気、というよりも、全日本プロレスファンからの期待は凄まじく、全日本プロレスはもう宮原選手にかかってるなって感じがしました。でも、紙テープ人気は低いんですよね(笑)。

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 試合は白熱した展開となりましたが、最後はボディガー選手のハイキックがジェイク選手に炸裂し、ラリアット三連発で勝利。ジェイク選手も耐えましたが、まだ他の三選手と比べてスタミナ面と試合の組み立て方で劣っている部分が見られ、そこを突かれたかなという感じでした。

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 えー、個人的にボディガー選手がお気に入りになりつつありましたが、ジェイク選手とボディガー選手が対峙していて、ジェイク選手がピンチになったときは、自然と「ジェイク〜」と叫んでおりました。ごめんなさい、ボディガー選手。「けんと〜」という声援は自発的に行っておりました(笑)。

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 会場は熱気もあって、試合も楽しめました。チャンカンの対戦日程表が貼ってあったので激写したのに、ピントが合ってなくて、字が読めませんでした(泣)。既にファンクラブサイトに発表されておりますので、興味のある方はそちらをご覧ください。

お知らせ詳細 - 全日本プロレス公式ファンクラブサイト

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 チャンカン優勝は、宮原選手だと思います。Aブロックは宮原選手、Bブロックはジョー・ドーリング選手が勝ち上がってくると予想します。

 4月24日はチャンカン優勝決定戦(宮原選手対関本選手の公式戦もあり)、5月15日はファン感謝デーが、同会場で行われます。どちらも楽しみです(チャンカン優勝決定戦はもうチケット買いましたw)。

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スティーブ・ジョブズ

マカーではありますが、disっています。


 これほどに、一見さんお断りな映画だとは思いませんでした。普通に、ジョブズのしてきたことを振り返るという内容か、ジョブズに焦点を当てたドラマかと思っていました。ジョブズの人間性に焦点を当てたという映画ではありましたが、ドラマではなかったように思います。

 Macintosh好き、Apple好き、ジョブズ好きで、それぞれのこれまでの経緯や背景、ウォズニアックをはじめとした登場人物の名前や役割等を、ある程度は知っていないと楽しめないと思います。しかも、事実を構成している要素をパズルにし、全体をデフォルメして、1984年のMacintosh発表会、NEXT STEPじゃなくてCubeでしたねの発表会、iMacの発表会という3つの似たような舞台を土台というか額にして、そこにパズルのピースを埋めていくという作業をしている映画となっているのです。

 また、ジョブズとリサの関係を軸として、リサの母親、スカリー、ハーツフェルドとの関係性の軸を交差させ、ジョブズの人間性を浮き彫りにしようとする側面をコーディネートし、ジョアンナ・ホフマンが観客への視点の代役というかクッションになるという構成ですが、そんなんね、余程それらの人々や状況、背景との関係性に詳しくないとわかんないっすよ。

 つーか、Macintoshが爆死みたいな扱いになってたけど、そんなことないよね。どっちかつったら成功だよね。

 それと、この映画は会話劇でもあるのです。英語話者ではない人には、余計に置き去りにされてしまう要素が満載です。英語的な言い回しでの展開も散りばめられていたので(と思いますw)、吹き替えにしたからいいというものでもないと思います。

 ボクには、一体この映画を作ってどうしたいのか、何を表現したいのか、商品(劇場公開品)として売りたいのか、着地点はどこなのか、さっぱり理解できませんでした。劇中でも出てくる言葉で「現実歪曲空間」(Reality distortion field)というのがありますが、もしかして、それをジョブズという偶像を使って表現したかっただけなのでしょうか。

 どうせなら、iPhoneの発表会までやれば、この映画の物語的には少しはオチがついたのかなとも思えたのですけどね。