悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド

ネタバレしていますし、超disっていますが、私は本作は大好きですよ。Blu-rayの購入予約も鑑賞前から既にしていますし、真骨彫のネクストファイザもネクストカイザも予約決済済ですからね。

 

 

新宿バルト9(一回目)/丸の内TOEI(二回目)にて鑑賞

 

 夢の続き、というよりも、夢の途中、というか、夢から現実への乗り換え、だったかな。

 思い出補正が効かない私には20年前の555の幻想というか柱に縛られて、それ故に展開や、俳優陣の演技や容姿、役柄への解釈といった部分のチグハグさというか噛み合わなさが目に付きましたが、ラストバトルはその20年前の555の幻想があってこその胸熱展開で、一度目の鑑賞時は私にとってはどうにも感情の持って行き場が行方不明になりましたが、二度目の鑑賞時に、もうこのラストバトルで全て許せるよなという気持ちになりました。

 映画自体は低品質(失礼)でしたが、あれから20年後の今の時代に本作が作られた意味を噛み締めたいのと、嫌いにはなれないというか、好きになりたい、そんな映画でもありました。予算内で出来る限りのことはしたよねという印象はありますので、低品質だったと書きながら不思議と不満はありません。低品質にならざるを得ないのは、日本映画界全体としての問題(構造的問題かな)というか課題でしょうし。

 本作の時間軸がTVシリーズから20年経過しているのか、数年程度なのか分かりませんが、なんとなく3年から4年程度っていう感じなんですよね。それでも俳優陣はどうしても20年経過しているのが分かるので(そのことを否定したり、駄目だという意味ではありません。あくまでもキャラクターを演じる部分での提示された容姿や演技についての受け止めです)、自分の中にあるキャラクターイメージとの差を埋めるのに苦労したというか。TVシリーズの面影が強いと更に受け入れるのに時間が掛かるのかなと思います。

 脚本の井上敏樹大先生が実質的な原作者なので、種としてではなく個として、オルフェノクが人間社会の中で生活するという生き様にシフト変更したのは受け入れるしかないのですが、なんというかモゾモゾ感というか、居心地の悪さはあります。555という舞台でやる意味があったのかっていう観点で、ですが。

 555って(TVシリーズは)群像劇だったということからも、個を描くよりも種を描こうとしていた側面が強いと思っています。20年経過したが故の提供するものと求めるもののズレがモゾモゾ感みたいなものを引き起こしているのかな。

 パラロスの最後は、巧と真理の人間(個人)同士というか(それもあるだろうけど)、オルフェノクという種と、人間という種の共存への希望を示唆していたと思うのだけど、それを壊してきたのはどういう意味があるのかなと考えたのですが、ずっと答えを問い続けることになるのかなと。

 巧と真理が一線を超えて一発やってしまうのはどうなんだろう。二人の関係を恋愛関係というか、単純に肉体関係に持っていってしまったのは悪手だったと思う。そういう関係ではないからこその555だったと捉えているからっていうのもあるけど。

 着ぐるみS◯Xの場面は、映像表現(描写)として気持ち悪かったので金輪際やめてほしい。意図は分かるけど。子供がやるフィギュアを使ったごっこ遊びじゃないんだから。表現面や展開部分での嫌悪感もあったので、この場面を受け入れられない自分がいるのかなとも思います。

 また、真理に母性を求めた結果、恋愛感情はない行きずりの行為だったとしても、映画での表現の限度もあるだろうけど、そうだと仮定しても提示された展開や表現自体が幼すぎて、踏み込んでいくのなら、その先を見せるのが555だったんじゃないかという不満と不安が出るんですよ。

 ここはパラロスのように二人でダンスが正解(敢えて正解と言い切ります)だったと私は思います。劇中でのオルフェノクの代表が巧で、人間の代表が真理であるという形で。主人公と恋愛関係にないヒロインって受け入れられ難いとは思うけど、だからこそ安直に走ったなという印象を抱いてしまったんですよね。他の映画と比較してはいけないんだろうけど、『パシフック・リム』はその要素を排除して支持されているよねっていう事実もありますし。

 草加雅人は真理とは何度かやっちゃってるよねとは思うんだけど、真理的には草加雅人とやるのも巧とやるのも同じ理由なのかなと考えたら、まぁ納得はできないまでも、井上敏樹大先生のアクの強さが悪い方向に出てしまったのかなとは思えるかな。

 ミューズと、巧&真理が対峙する場面、ミューズが月(多分ウルフムーン)を見て「月が綺麗ですね」って巧に対して言うのですが、夏目漱石流の「I love you.」という告白なんですよね、多分。うん、この場面はグッときたかな。ミューズというキャラを短い時間内で立たせるには効果的な場面だったと思います。

 真理がオルフェノク化するのって、まんま『仮面ライダー BLACK SUN』じゃねーかよ。これも悪手だったと思います。というか、これは巧との一発場面が先にできて、その理由付けとして真理をオルフェノク化したという気がしてなりません。

 それか、真理に木場さんの要素を入れたってことなんかな。でもね、真理の要素が薄くなったという結果はどう受け止めればいいんだろう。木場さんの要素を受け継ぐんであれば、それは草加雅人でよかったんじゃないのかな。ザリガニオルフェノクとなって復活ということで。

 草加雅人は本当に劇薬だったんだなというのも再認識しました。TVシリーズ本編において、木場さんや真理の存在意義、立ち位置、役割を薄めるというか奪ってしまい、乾巧という主人公のアンチテーゼ(対立軸)として成り立ってしまったからと考えるからです。そうなると、TVシリーズ本編で散華させてしまったのはあかんかったんかな。でも、あれで草加雅人というキャラクターが一層際立ったことでもあるし。

 草加雅人と北崎さんは政府が作ったアンドロイドで、草加雅人はスパイというか、真理がオルフェノクに覚醒したときの対応策として派遣され、菊池クリーニング店にいるという設定です。草加雅人が巧のことを「乾君」と君付けで呼んでるのは違和感があったんですが、これはわざとですよね。というか、真理ってそこまでオルフェノク化したらヤバイぞって思われてたのかな。

 主人公である乾巧というキャラクターがあやふやというのもどうなんだろう。迷いや悩みはしても、オルフェノクを絶滅させるなんていう思考になるんだろうか。そこが深く掘り下げられてもいないので、薄い巧像が出来上がってしまったように見えたのかな。妄想するには材料が足りないし、この部分って観客に想像させる部分ではなく、しっかりと提示しておかないといけない部分だと思うのですね。

 あ、そうか、TVシリーズで描くような濃さを、映画というか、通常よりも短い尺の本作で描こうとしたから、濃淡のバランスが悪く仕上がってしまっているのか。TVシリーズ同様にライブ感というか雑なところも多く、TVシリーズより時間が短い分、TVシリーズのときは雑さをライブ感で上書きして誤魔化していたけど、短い尺の映画ではどうにも誤魔化せなかったのかな。

 菊池クリーニング店のオルフェノクが普通に殺されて死ぬという展開はよかった。あれで全員生き残っていたら緊迫感に欠けますしね。全滅でもよかったくらい。

 啓太郎の甥の存在感のなさ(俳優さんがどうこうではなくて)もそのキャラクターいらんかったやんって思ったので(旧式555のベルト配達人として必要だったのかな)、真理よりも啓太郎の甥のオルフェノク化でもよかったような。ラストの団欒場面でもオルフェノク化すれば戦力になるのにって言われていますが。

 まさか、仮面ライダーネクスファイズも、仮面ライダーネクストカイザも、旧式のガラケーファイズの噛ませ犬的ポジになるとは思わなんだ。そこが胸熱なんですけどね。ドルチェスターのラスボス二人をまとめてクリムゾンスマッシュで撃ち抜く場面には大満足です(オルフェノク化した真理との共同作業)。本作で最もいい場面だとも思います。ラストバトルが胸熱のは、劇中の真理のセリフじゃないけど、理屈じゃないんよね。

 (三代目?)草加雅人はとうとうスマートブレインの社長(まぁ雇われというかアンドロイドだけどw)に就任したし、なんか過去の上の上のオルフェノクであろう皆さんが冷凍保存みたいな感じで残っているので、そちらと戦うかもね、な続編には期待したいです。

 続編があるとすれば、スマートブレイン社長になった草加雅人がスーパーネクストカイザに変身して盛大にやられて、一人で大爆死してほしい。いやいや、アンドロイドから自我に目覚めて、真理のためにもう一度爆死してほしい。

 北崎さんの下の名前は「望」だったのか。演じられた藤田玲さんも初めて知ったとか言われてましたね。北崎さんが冒頭でミューズに指令を出すとき、歯をカチカチみたいなことして連絡しているのですが、そうか、アンドロイドってあの時点でネタバレしていたのか。新しい通信システム(それはそれで正解かw)かと思いましたよ。

 長々と書いてきましたが、一番言いたい(書きたい)のは、真理の誕生日が1987年11月27日っていう設定になっていたことなのです。あれ?、あれれ?、9月13日が真理の誕生日じゃなかったでしたっけ。913、カイザの日が真理の誕生日という因縁があったのに、それがなくなってしまっているじゃないですか。草加雅人が、いや、村上幸平さんが嘆くぞ(笑)。誕生日は演じられた芳賀優里亜さんのものでした。

 本作が作られたのは、冗談抜きで村上幸平さんの活動の賜物だと思います。村上幸平さんが草加雅人という役を愛し、大事にし、ファンとの交流を続けてきた(途中、俳優業を辞められていた時期もありますが)結果ではないかと思います。そういう意味でも、草加雅人というキャラクターをいい意味でも悪い意味でも『仮面ライダー555』という世界や物語に刻みつけてしまったというか、呪いをかけてしまったのかなと(笑)。幾ら死のうとも、絶対に出演させなければいけないキャラクターになりましたよね。