悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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ザ・クリエイター/創造者

若干ネタバレしていますし、若干disっています。

 

 

ディズニー・チャンネルにて鑑賞

 

 現代の『ブレードランナー』の立ち位置且つ役割を担う映画が登場したなと思いました。設定の甘さや、人が想像するロボット社会というものの限界は見えてしまうけれども、ガジェットやロボットの描写はSF映画好きにはたまらないものではないでしょうか。数年後にはカルト映画として人気が出そうな予感です。

 描きたいことは理解しつつも(多分w)、演出や展開も含めた諸々がそれに追いついていないというか、煮詰めきれていなかったという受け止めなんですが、だからこそ面白い側面や、完成されていないからこその美しさや儚さもあって、これまた嫌いになれないというか、好きではあるけど……っていう映画でした。

 従来の人間と、模造人間(A.I.人間)であるシミュラントとの異種間同士の生存を賭けた戦いではあるけど、従来の人間側がシミュラントに対する憎しみと妬みだけで一方的に暴力を振るうという構図は、かつての西部劇やその時代への現代からの返答なのでしょうか。

 個体の程度の差こそあれ、本質的には人は争いを求める生き物でしかなく、それを取っ払った、従来の人間が理想とする形の現れであるシミュラントへの嫉妬が、この物語の悲劇を生んだのかなと妄想します。

 主人公は一応身勝手な特殊部隊のアメリカ軍人(冒頭の任務後に退役なんかな)で、ニルマータ(現代のA.I.の生みの親の系譜みたいなもんかな)である配偶者との関係性が物語の軸にはなるものの、この描写が薄いので、ニューアジアという国をはじめ、A.I.と人類の共存側の最終兵器と言われる自分の子供を模したシミュラントとの交流や最後の主人公の選択(自分の命よりも子供のシミュラントを助ける)のほか、シミュラントとなった配偶者との再会も、エモーショナルな展開だとは頭で理解しつつも、ノレなかったんですよね。物語としていうよりも、そういうプロットを見せられたっていう感じでした。

 ニューアジアという国は、アメリカが国家として国内を武力で攻撃しているのに、国家として対応、対抗せずに自警団みたいな組織が応戦しているだけっていうのは、作劇の都合上だというのは理解はできるけど、現実感(約50年後の世界が舞台のSF映画に現実感なんて求めるなよって言われればそうですが)がかなり薄まって、なんか居心地を悪く感じてしまったのは残念なところでした。

 『ブレードランナー』はその先が絶望であっても二人の行く末には希望を感じたいラストで、当事者同士がこれから先どうなるのかという締め括りでしたが(エディションにより印象は異なるでしょうけど)、本作は当事者同士の子供(を模したシミュラントだけど)に希望を託すという、次世代へ希望を託す、次世代への橋渡しを意識したラストなのはよかったかな。私はここにも『ブレードランナー』と同じようなヴァイブを感じました。

 シミュラントの人達が人間が理想とする人間っぽさをまとって描かれ、アメリカ人(アメリカ兵)が現実の人間っぽさをまとって描かれるという対比もよかったかな。

 渡辺謙の英語の発音が怪しかったからなのか、劇中でやたら彼が日本語を使ったりしているのですが、それがなんというかA.I.世界というか、A.I.で翻訳すればいいんだから、その人達が話したい言語、得意な言語でそれぞれ話せよっていう感じが出ていて、そこは意図していなかった演出だとは思うけど、世界観を壊さずにいい感じで世界観を補完していたと思います。監督のギャレス・エドワーズの趣味なんかもしんないけど。キャプチャータイトルとか、看板とかも日本語が使われていたりしますし。日本公開ローカルのみではないですよね、あれって。