悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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コット、はじまりの夏

ネタバレしていますが、ネタバレ云々っていう映画でもないので問題ないと思います。

 

公式サイト:https://www.flag-pictures.co.jp/caitmovie/

 

ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞

 

 抽象的描写が多く、個人的には一つくらいはしっかりと核心に迫った具体的なエピソードがあった方がよかったなとは思うものの、だからこそ、ラストシーンが胸に響いたのだろうし、その後を色々と思い巡らせてしまう結果にも繋がったのではないでしょうか。

 コットという少女を通じて、母方のいとこのアイリンとその夫のショーンの、過去の出来事に向き合えずにどことなくぎこちなかった関係性を解消し、コット自身も親や家族との関わり合い方に意識の変化をもたらすことになったというひと夏のお話を、淡々と描く映画です。

 苦しさ、辛さといった感情の表面部分を美しさという曖昧さでコーティングした映画で、そこに歪さは見え隠れしながらも、コーティングされた美しさにより、(映画の中の出来事)全てをいい思い出にしてもいいと思えてしまうような魔力を持った映画という印象です。

 ただ、一般受けはしないかなとも思いました。エンタメ要素はありませんし、観客側にも(こういう言い方は嫌ですし、適切な言葉かどうか分かりかねますが)少し高めのリテラシーが要求される類の映画ではありますから。

 ショーンとアイリンの夫妻はアイルランドで酪農を営む夫婦で、過去に(おそらく)井戸の中で幼い息子が溺死した出来事から、夫婦仲は悪いわけではなく、信頼関係はあるものの、少しギクシャクした、お互いに壁みたいなものを作ってしまっていました。

 コットは兄弟姉妹が多く(何人いたんだろう、5人くらいはいましたね)、父親はだらしなく、母親は妊娠中ということもあってか、家族からの愛情に飢えており、学校でも変な子扱いされ孤独なこともあってか、誰ともあまり話したがらず、自分の殻の中に閉じこもっていました。また、そういう事情からか、通常の同じ歳の子よりも学習能力が劣っていたり、夜尿症が治りきらない一面が残っていました。

 あるひと夏の間だけ(80年代初頭が舞台のようです)、コットは母親が妊娠中ということや家計が大変ということもあってか、母方の親戚であるアイリンのもとに預けられます。

 アイリンは愛情を持って接しますが、夫であるショーンはコットに亡き息子の面影を見出すのが辛いからか、ついつい厳しい対応をとってしまいます。

 アイリンが近所で病気の方の世話のために日中いなくなると、ショーンは仕方なくコットを連れて、日々の仕事である牛の世話等を一緒に行います。そこで、徐々にコットはショーンの表立っては見せることのない優しさに触れていきます。

 近所で病気だった方が亡くなり、通夜において、アイリンは近所のオバハンにコットの世話を頼みます。このオバハンが余計なことを言い散らかして、ショーンとアイリンの間に息子がいたが事故死したことを知ってしまいます。なんでこんなオバハンに預けてんねん(笑)。しかも、心配してか超特急でショーンとアイリンは迎えに来るし(コットとオバハンは徒歩でオバハン宅に帰宅するも、ショーンとアイリンは車でという違い)。原作でもそうなのか知りませんが、ここは作劇の悪い意味での都合を唯一感じました。

 アイリンはコットに最初に家に秘密があるのはいけないと言いながらも、秘密にしていたことがあり、それをコットが知ってしまったこと、それによって息子が亡くなっているという事実に改めて向き合うことになってしまいましたが、ショーンはそんなアイリンを一人にすべく、コットを連れて夜の海を眺めにいきます。このね、何も言わない優しさ、これですよ、これ。言わないと分からないのも理解できますが、言わなくても分かるよねっていうのも理解していきたいですよね。

 夏が終わり、いよいよコットが帰る日、(おそらく)ショーンとアイリンの息子が亡くなった井戸みたいなところでコットも溺れかけますが、自力生還。ここは、ショーンとアイリンが過去の呪縛から少しは解放されたという象徴的な場面だと捉えています。

 ショーンが運転する車で実家に送り届けられるコット。でも、実家なのに、それまでずっと住んでいた家なのに居心地悪く感じます。ショーンとアイリンも名残惜しいまでも、いつまでもいるわけにはいかないので、コットの母にお土産を渡して車で帰って行こうとしますが、たまらずコットが追い掛けます。家(というか敷地)の門を閉めるタイミングで駆け寄ってくるコットにショーンが気付き、コットを抱きしめます。

 ええ、ここで私は泣いてましたよ。自然に涙が出てましたよ。ショーンに抱きつくんですよ、コットが。ツンデレおっさんのショーンに、ですよ。今日は甘やかすためだとか言って街に連れていくショーンに、ですよ。アイスでも食えって沢山の小遣いをくれるショーンに、ですよ。

 そして、父親がコットのもとにやってきます。コットはそれを見て「パパ」と呟きます。というところで映画は終了です。その後はどうなるのかは不明です。原作ではどのように書かれているのでしょうか。

 ラストについて、映画を観ただけでの邪推だと、コットはひと夏をショーンとアリインのもとで過ごしたことで、人との接し方を学んだと言えば大袈裟ですが、コットなりに意識の変化があったと思います。父親もそんなコットを見て、自分の父親としてのこれまでの接し方に思う部分があったのかなと。ということで、コットは実家に戻って頑張るんだという選択をしたのではないかと思っています。

 コットは誰にも関心を寄せられていないと感じていたし、実際にそういう側面も多かったと思います。それを理由に自分も親や家族に関心を示していなかったのではないかと感じることができたのではないでしょうか。それを描いた映画だったと思っています。

 冒頭の場面ですが、母親はなんだかんだ言いながらもコットが普段はどう過ごしているのかとか分かってる感じでしたもんね。そういうこともあって、いとこのアイリンのもとで過ごさせようとしたんじゃないかなとも思えてきました。

 ショーンもアイリンもコットも父親も、何かを変える、一歩進むのにキッカケが必要だったけど、コットを預けたことによるコット自身の変化がそのキッカケになったのでしょう。コットに注目がいきますが、映画の作りとしては、コットだけではなく、ショーンとアイリンの物語でもあったと思います。