悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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市子

しれっとネタバレしていますし、disっちゃってるかもですね。ただ、悪い映画ではないです。

 

 

 

TOHOシネマズシャンテ スクリーン1にて鑑賞

 

 長距離走にて、ゴール間近で脱水症状でリタイアしたという印象の映画でした。匂わせる部分とそうでない部分の取捨選択を間違えていたなと感じました。所謂、投げっぱなしジャーマンみたいになっていたよねと。

 終盤手前まではいい映画だなと感じてはいました。全体的に悪い映画ではないのですが、商業映画として、ある程度の説明と説得力は必要だと私は考えており、それをしっかりと提示されなかった、またはできていなかったのは残念でした。

 観客に考えてほしい、想像してほしいという要求、希望を否定はしておりません。その線引や取捨選択は観客によって様々でしょうし合わせるのは大変なのは分かりますが、商業映画である以上、ある程度の説明と説得力は必要ではないでしょうか。この映画はそれを伝えようというメッセージ性といいましょうか、それを放棄してしまっているように思えました。

 原作があり(舞台劇)、原作がそうなっているのなら仕方はないのですが、原作者が本作の監督でもありますので、商業映画用に調整していただきたかったところです。

 市子が高校生の頃、彼氏の田中とセックスをしなくなったのは、母親のヒモ(になってるんですよね、あの時期には)である小泉と肉体関係を持ってしまったからでしょうという部分は、直接表現ではなく、匂わせでいいと思います。

 ラストの、崖から車が転落して、車中には20代と思われる男女が乗っていたという部分においては、おそらくこれは高校の同級生だった男性の北と、市子が自分がすり替わるためにネットの掲示板で募集した自殺志願者の女性だったと思うのですが、どうやって事故に見せかけることができたのかとかの詳細や過程の描写はいいとしても、そうですよという答え合わせや、市子はまた他人のすり替わりとして生きていくのです、といった提示、または本作における答えはほしいのです。

 全てが匂わせな表現になってしまっているのは、市子の存在自体が、現代社会において曖昧であるという隠喩というのは分かるのですが、結果として本作の映画としての存在意義自体が曖昧になってませんかと思いました。そういう映画を否定はしませんが、商業映画である以上、ある程度の実体さは確保していてほしいというのが私の気持ちです。映画として、正解というか見解みたいなものは明確に提示してほしいと思いますし、それは製作者の義務みたいなものではないかと捉えています。厳しい言い方をすれば自己満足でしかなく、それで終わってしまっていては商業映画とは言えないというのが私の主張です。

 市子の生い立ちみたいなものについては以下のとおりだったと思います。あくまで、今回の映画のみでのものとなります。原作である舞台版は未見です。

 母親は市子が生まれる前に離婚したことから、市子は生まれてから無戸籍状態が続いていた。父親はDV野郎だったために関係を絶ちたかったのが理由なのでしょう。

 3年後に妹の月子が生まれるが(市子とは異父姉妹)、筋ジストロフィーの病気と知的障害を抱えていました。おそらく、月子の存在は隠していたと思われます。月子の父親とも離婚しています。離婚理由はバーの場面でバーのママが言ってましたが、失念しました(すみません)。

 事情は定かではありませんが(おそらく月子関係なんだろうけど、何故このタイミングなのかが分からないです)、市子が小学3年生くらいの頃に一旦地元の東大阪から家族揃って去り、3年後に舞い戻ってきます。市子はそのときに3歳サバ読み(市子は再び小学3年生って、サザエさん方式かよw)で月子と名のり、小中高と通います。

 この辺りの描写は、知っている人が知らない人に対して提示するときによく嵌まる罠に陥っていると思いました。自分達は内容を知ってるから、それを前提として端折って伝えたところ(匂わせな伝え方ですね)、相手にはその前提が共有されていないから情報が正確に伝わらない、というものです。

 小学生時の市子は大人に見せる顔をしっかりと弁えていて、ただ善悪の判断は一般的でないという感じです。盗みを悪いこととは思っていなくて、捕まる危険がある行為という捉え方をしていたと思います。捕まらなければOKという感じですね。

 高校生の夏の日、月子の呼吸器を外して殺害。介護疲れと、自分は市子なのか月子なのかという境界線が曖昧になってしまったが故の突発的な行為だったのでしょう。そして、おそらくその後に母親のヒモとなっていた小泉を誤って殺害。殺す気のなかった事故だと思われます。その現場を高校の同級生であった北に見られ、二人で小泉を線路の上に放置し、最終的に警察は自殺と判断。その事件をキッカケに(というか直後みたい)、市子と母親は雲隠れします。

 次に(多分)大阪のどこかのケーキ屋と、新聞配達のバイト兼住み込みで生計を立てるようになった市子。この時点で母親とはもう一緒に暮らしていません。ここらの経緯や事情も説明とかないので分かりません。この頃から、表向きにも周囲には月子ではなく市子と名乗っていた模様。

 その後、長谷川と祭りの焼きそばの夜店で知り合い、同棲にまで発展、3年が経過し映画本編の現在時点である2015年8月になったという流れです。

 市子のこれまでの要素や行動全てを含めての人間としての市子なのか、同棲していた恋人に見せた一面が市子が本当の自分自身だと思っている姿なのか。曖昧な提示になっていますが、ここは観客の想像に委ねますということなのでしょう。ならば、やはり私は委ねる部分と委ねない部分の取捨選択はしっかりとすべきだったと考えます。

 私としては最後の場面の市子の様子から、劇中でも言われるとおり(母娘揃って)悪魔で、同棲していた恋人に見せていたのはあくまでも一面に過ぎず、それに執着する気持ちはサラサラないですよというものだったのかなと捉えています。いえ、執着したかったとしてももう後戻りできない市子にとっては、事実が露呈した段階でもう全て過去の精算すべき出来事になってしまっていたのではないでしょうか。

 ただ、この私の考えで引っ掛かるのは、市子が同棲していた恋人に結婚を申し込まれて、戸籍の問題があるにも関わらず、その時点では逃げずに、直後に月子の遺体が発見されたニュースに動揺し急に荷物を纏めて逃げ出すという冒頭の場面です。

 あ、戸籍は月子になっているから問題はないのか、表面上は。国民健康保険料も支払っていたようだし。

 名前に関しては、実は本名は月子なんだけど、昔からあだ名で市子と呼ばれていて、自分も気に入ったからとか嘘をつけばいいのか。であるなら、長谷川と同棲していた時期に見せた一面でずっと暮らし続ける覚悟があったということなんかな。うーん、よく分かんなくなってきたな(笑)。

 市子って、他人の生死には無頓着というか、興味がないのかもしれませんね。だから、結果的に殺してしまうことになっても、バレなければOKという感じで。ただ、捕まる危険があるので逃げるだけで。捕まれば自分の自由はなくなるでしょうし、それは市子にとっては一番避けたいことなのかもですね。

 長谷川も市子のこれまでを知って、なお、全てを受け止める、劇中のセリフで言うところの抱きしめる覚悟ができた、あったということなのでしょうか。この辺りの覚悟もどうとでも捉えられるような提示になっているので、どうなんだよっていうモヤモヤ感は正直ありました。

 東大阪を魔境扱いで描いているけど、平成初期の時代とはいえ、雰囲気は昭和というか、昭和40年代っぽくなってるような感じだけど、大丈夫なんだろうか。余計な心配ですけどね(笑)。

 大阪弁は自然な感じでよかったです。原作者でもあり、監督の方が大阪出身のようで、だからセリフというか、発せられた言葉がすんなりと大阪弁として入ってきたんかなー。

 もう一つよかったところは、登場人物をメインに映す場面で、手持ちカメラで若干の手ブレを入れている部分と、固定して映している部分を分けていたところですね。登場人物の心理が揺れているであろう場面とか、感情的に何かを伝えたいときは手ブレで、場面をしっかりと描写したいときは固定という使い分けがされていたように記憶しています。

 市子の母親は、現在も、若い頃(市子が小学生の頃)も容姿がほぼ変わらないのは雑だったと思います(演じた俳優さんがどうこうではありません)。同じ俳優さんを使っているからというのもあるけど、ちょっと画面を見ててバグるというか。現在の時点で若く見積もっても40代後半というか50歳前後でしょうし。そこはもう少し見た目とかなんとかでけへんかったんやろか。

 あ、市子って3歳サバ読みさせられているから、劇中の現在時点では31歳ですよね、多分。そんなことはどうでもいいか(笑)。