悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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アナログ

ネタバレというほどネタバレはしていませんが、感想なので若干展開についての言及はありますのでご注意ください。disってはいません、多分。

 

 

 

新宿ピカデリーにて鑑賞

 

 

 「ニノ、あんたすげーよ」と、二宮和也さんに対して古くからの友人か知人かのように親しげに面と向かって告げたいほど、素晴らしい映画でした。

 淡々と一本調子なリズムで物語というか日常が進められていくので、観る人をかなり選ぶような映画だとは思います。恋愛ものではありますが、二宮和也さんがCIAや機関のエージェントや、元兵士でPTSD気味だったりとか、ヒロイン役の波瑠さんが誘拐されて銃撃戦や格闘戦の末に救出なんていう、ドラマティックな展開というのもありません。(当たり前だよw)

 優しく穏やかな時間が流れ、その空気が充満している映画で、それらをずっと保ち、また終盤近くまで続く居心地のいい一定のリズムを刻んでいたのは二宮和也さんで、この映画を牽引していました。それに周りの俳優さん達も自然に乗っかれていたなという印象です。いえ、俳優さんばかりでなく、演出やその他諸々も引っ張られていたんじゃないかなと感じました。二宮和也さんは本当に凄い俳優さんだなと思いましたし、彼がいないとこの映画は成り立たなかったのではないでしょうか。

 私のお気持ち表明なだけで(感想だから当たり前ですが)、単に好みの問題なのですが、終盤に差し掛かるところ、ヒロインのことが語られる展開に関して、それまで続いていた居心地のいい一定のリズムが崩れてしまいます。意図的にそうしているのは理解していますし、リズムを崩してでも説明しないといけない理由も納得できますし、ここでそれまでのリズムを崩すことで、映画の結末に至るまでの展開を効果的なものにしようという演出だということも分かるのですが、それまでのリズムと空気感がもう至福だったので、ちょっと面食らったというか、気持ちの整理が(鑑賞中に)追い付かないというか、それほどまでにこの映画の世界に浸っていたから余計に戸惑ったといいますか。原作は未読ですが、原作から大きくヒロインとの関係性の理由を変更はできないでしょうしね。

 ヒロインが事故に遭い、事故後の障害は酷く、意思疎通も難しい状態ではありますが、生存していたということで、主人公にとっては大変なんだろうけど、(本作の主人公の感情的には)死なれるよりも辛さは格段にマシだろうから、それはよかったなーと。深刻な状況ではありますが、なんとなくホッとしたんです。よくある展開では、ヒロインが亡くなることによる悲恋に決着しがちですからね。

 苦言もあります(笑)。二宮和也さんが大阪に出張(年単位の長期出張=ほぼ転勤)し、会社の新人社員の飲み会(だったかな?)の場面ですが、大阪支社の人達は一応関西圏の人達という設定だと思うのですが、話す言葉が似非関西弁なんですよ。これはあかん。これはほんまにあかん。やったらあかんこと。ちゃんとせんと、ここは。実際は映画に合わせての調整だと思いますが、やっぱり、それでもあかんねん(爆)。

 そういやー、ヒロインが父親の看病とか晩ご飯を作らんといけんねん、父親は一人で何もできないからということを言っていたような気がするんですが、父親が画面に登場したときは歳の割には結構お元気そうだったんですが、そこは……。

 まぁ、私がこんなにべた褒めするなんて珍しいのですが、もう重箱の隅をつつくくらいしかできないほどに素晴らしい、そして素敵な映画でした。

 そうそう、この映画の本編上映前に、北野武監督・ビートたけし主演の映画『首』の予告編が流れたんですよ。予告編からの印象は、魑魅魍魎が跋扈するような戦国武将の時代の映画で、なんかドロドロしてそうと思っていたのですが、この『アナログ』の原作もビートたけしさんなんですよね。なんすか、この振り幅は。

 

ゴジラvsコング

若干ネタバレしています。disっちゃってますね。

 

 

 

 

 

 

 

アマゾンプライムビデオにて鑑賞

 

やっと観ました。凄くモタモタした映画だなと思いました。展開自体は速いのですが、緊張感がないように感じて、それでモタモタしていると思ってしまったのかなと考えています。

 大きな流れとしては、アレクサンダー・スカルスガルドのパートと、ミリー・ボビー・ブラウンのパートが交互という形で、色々と仕掛けはあるのですが、本当にモタっているとか、ダラっとした感じが最後まで拭えなかったんですよね。

 広げた風呂敷の畳み方を忘れたので、開き直って更に風呂敷を広げようとしたというような印象も残りました。

 今回は、コングが主人公の席に座る変わりに、ゴジラへの負けブックを飲んだという形ですよね。ラスボスのメカゴジラを最終的に(最後の一撃で)倒したのもコングですし。ゴジラは今回は影が薄いというか、ゲストみたいな形でしょうか。客演感バリバリでしたね。一応、ゴジラ映画ですよね、これ……。

 地球で最強の生き物はゴジラになったようですが、生き物カテゴリー関係なく地球最強はメカゴジラだったというヲチでしたが、それで納得してもいいんでしょうか。宿命のライバルであるゴジラとコングが、各々タイマンでは倒せないメカゴジラを協力して倒すという胸熱展開にしたかったんでしょうけど、描写がコング寄り過ぎて共闘という面での熱量を生み出せなかったのは痛いところだったと思います。

 どうして、ゴジラとコングを戦わせたくなるのか分かりませんが、どちらにとってもLose-Loseな関係にしかならないように思えます。

 小栗旬さんの白目芸はよかったけど、彼を芹沢博士の息子という設定(ですよね)にする必要はあったのでしょうか。キャラとしての味付けは、親の仇を討つみたいな印象も受けなかったし、ゴジラに対する執念みたいなものもなかったように見えましたし(そういった部分は編集でカットされたのかもしんないけど)。「ゴジラ」の発音は日本式でしたけど、そこだけ親の意思を継いだってことなんかな。最後は昇天したみたいな描写がありましたが、死んだということなのでしょうか。よく分かんないっす。

 小栗旬さん的にはたったこれだけの出演で、しかも特に重要なキャラとして描かれていないのであれば、拘束時間とか諸々の制限がかなりありそうなことを考慮したら、無理してハリウッド映画に出る必要はないよなと、そりゃ思っちゃうよなーと。だって、芹沢博士の息子じゃなくても映画としては成立しちゃうようなキャラの描き方でしかなかったですから。ポッと出のキャラでも成り立つ程度の描き方でしたし。

 メカゴジラは、アサイラム映画に出てくるようなデザインのものをお金をかけてアップデートしましたって感じで、チープだけど個人的にはよかったです。でも、かっちょよくはないですね(笑)。あ、映画自体もお金をかけたアサイラム映画だったように思えてきました。うん、この映画の感想を一言で言うなら、これだわ。<予算をバリバリ使ったアサイラム映画>。うん、なんか自分で納得してしまった。

 名作の(あ、名作なのは一作目でけですよ)『パシフィック・リム』と繋げる(モンスターバースでしたっけ?)構想もあったんですよね。なくなったようですけど、それでよかったと思います。

 

イコライザー THE FINAL

disってるかも。ネタバレも若干しています。

 

 

TOHOシネマズ新宿 スクリーン10 IMAXレーザーにて鑑賞

 

 一作目、二作目とも違うテイストで攻めてきたなと。前二作はどちらかと言えば直球勝負が主体だったのに、今回は変化球での攻めに終始したなというのが第一印象でした。淡々と進む要素は二作目にもありましたが、この表現をこのシリーズで突き詰める必要があったのかなとは思いました。

 こういう雰囲気や展開は嫌いではないものの、イコライザーを観に来たんですが……という気持ちが拭えませんでした。昔の時代劇・西部劇でよくあったような展開・設定を現代にトレースしたらこうなるのかなという感じはいいんですけどね。私の自説であるお好み焼き理論で言えば、お好み焼きを食べにきたのに出されたのはピザだったということですよ。まぁ、そのピザも不味くはないし、特に不満もないんだけど(つか、普通においしかったんだけどねw)、舌はお好み焼きを欲していたわけですから寂しさというか物足りなさ、これじゃない感はどうしても残ってしまう。という、なんとも言えない気持ちなのです。

 できれば、これがイコライザーシリーズの一作目、又はイコライザーシリーズとは全く異なる別の映画として出会いたかったです。そうであれば、もっと純粋にこの映画と向き合えたかなと思っています。というか、こういう映画を待望していた気持ちもあるくらいです。

 一作目のラストバトルはプロ(マッコールさんですね)対セミプロの戦い、二作目のラストバトルはプロ一人(勿論、マッコールさんだけですね)対プロ多数(マッコールさんの元同僚みたいなもんですね)の戦いで、そこそこ激しいものでした。

 今作のラストバトルはプロ(ええ、マッコールさんですよ)対素人(と言ってもイタリアの5大マフィアの一つらしいですが)の戦いといった感じで、病み上がりのマッコールさんでも十分に対応できていたというところが、映画自体が淡々と進むことも相俟ってか、正直盛り上がらなかった要因じゃないかなと考えています。元々、マッコールさんの虐殺というか圧倒的な成敗ありきのシリーズですが、ラスボスにはある程度マッコールさんに対応可能な敵をこれまでは用意していたのに、今回はそれがないというのも一因でしょう。

 マッコールさんが改造されてから、怪我を負ったのが理由とはいえ、睡眠を取れたのは久し振りじゃないですかね。不眠症だったから一作目ではロシアンマフィア壊滅までやっちゃったわけですし。

 一作目でマッコールさんは自分の運命みたいなもんを受け入れて、二作目では嬉々としてそれを謳歌していたという記憶なんですが、今作では映画序盤で後ろからノーマークだった子供に撃たれて重傷を負った程度で自分自身の存在を自問自答するループに陥り、気持ちを揺るがすような思考になるのかなというのが疑問というか、不思議に思えました。

 CIA勤務の元同僚の娘さんって必要だった?(ダコタ・ファニングが演じていますが、彼女がどうこうといういみではありませんよ)というのもありました。特に劇中で活躍するでもなく、物語に重要に絡んでくるでもなく。マッコールさんの孤高さの表現に対して、足を引っ張ってしまっているだけだったように捉えています。

 シリーズとしては最後なんでしょうか。原題は『THE EQUALIZER 3』となっていただけで、邦題で『イコライザー THE FINAL』と付けられているだけでのように思えますが。と、本国版の予告編にもファイナルチャプターって表記があったので最後なんかなー。デンゼル・ワシントンの年齢もあるし、そろそろ体が動かないとかっていうのも理由でしょうか。しれっと続編が作られているに10ペソくらいなら寄付してもいい(笑)。←冗談です。賭け事はしません!

 まぁ、マッコールさんは心の底から安らげる安住の地を見付けた(なんか現地女性ともいい感じを醸し出していましたし)という意味でファイナルとしたのかなとも思ったりしましたが、最後にマッコールさんはこの街から出ていくような素振りにも見えたんですよね。単に店を去るというだけの描写だったかもしれませんが、地元の人が協力してマッコールさんと共に戦う意思を見せて(マッコールさんの自ら飛び込んだ窮地を助けて)、地元のスポーツチームが何かの試合で勝利して街の皆さんと祝福している場面であったというのも、マッコールさんがもう自分は必要ないだろうと判断して立ち去るという描写に思えたんです。

 お話は、特に交流もない年老いた元レンガ職人の年金がネット上で盗まれたこと知ったマッコールさんは奪い返しにカチコミますが、そこはそういう詐欺以外にも麻薬売買にも手を染めているところだったので、それもついでに壊滅させちゃうんですが、立ち去り際にマフィアのボスの孫?に背後から撃たれて重傷を負い、なんとかその場から去って米国に戻ろうとしますが、意識が薄らいでいってしまうところを街の国境警備隊の人に助けてもらい、その街唯一?の医者の治療の甲斐もあり一命を取り留めたのですが、その街はマフィアがリゾート地にしようと画策しているというよくある光景で、街の商人達を脅してみかじめ料を巻き上げており、先の麻薬売買にも関与しているようで、マッコールさんはこの街が好きになってきましたが、自分は関わらないでおこうと距離を取りつつ、元来首を突っ込みたがる性質は変わりようもなく、結局マフィアを壊滅させちゃいました、てへ、という内容です。

 

ジョン・ウィック:コンセクエンス

ネタバレしてますが、珍しくdisってないっす。

 

 

 

 

 

 

TOHOシネマズ日比谷 IMAXレーザーにて鑑賞

 

 

 現時点での格闘アクション映画の最高峰ではないかと思います。「凄かった」という単語が鑑賞後に真っ先に脳内を支配しました。迫力もあったし。キアヌのドタバタ感も含めて、なんかシリーズで一番ジョン・ウィックというキャラクターの人間臭さが自然に描かれていたような気もします。しかも、全編ほぼアクションしかない映画なのに(笑)。

 こんなものをやってみよう、こっちもやってみよう、あれもやってみようと、色々と、まぁ語弊がある書き方になりますが、何もかもが取って付けたような感じになっちゃっているのが観ていても分かるのに、ジョン・ウィックという強力な接着剤によって、それぞれが強固にくっついているため、バラバラな印象はほぼ受けなかったですし、何もかもひっくるめてゴールに突き進んでる感じが観客にも自然に提示されていて、そのまま観客も一緒に駆け抜ける、そんな映画でした。

 上映時間も長いし(2時間40分くらいでしたっけ)、上記のこともあって、鑑賞後には一気にどっと疲れがきたのがマイナスポイントとも言えますが、心地よい疲れといいますか、鑑賞後の余韻に浸りたいという気持ちと、疲れたのでベッドで横になりたいという気持ちが同居するような妙な感情になっていました。(どっちやねんw)

 序盤はジョン・ウィックの影が薄く、その原因はドニー・イェン演じるケインの存在感と、真田広之さんが演じるシマヅの佇まいによってなのですが、徐々にジョン・ウィックが盛り返し(主人公ですしね)、序盤のドニーさんに対しての印象がうまくラストに効いてくるという展開もよかったと思います。

 また、シリーズの強みを最大限に活かした映画でもあったかと思います。ジョン・ウィックは強力な接着剤になっていたと書きましたが、それはこれまでのシリーズでジョン・ウィックを描いていたレガシー効果であると言えます。いつものようなキアヌのドタバタした感じが、そういうことも作用してか、これも前述のとおりですが、シリーズの中で一番人間味が出ていたような印象です。マジで全編アクションバリバリの映画なのに。

 あ、注意点として、劇中で(おそらく)地下鉄の梅田駅でジョン・ウィック西梅田行きの電車に乗りますが、現実世界では梅田駅から西梅田駅へは電車では行けません、というか、行こうと思えば1回の乗換で行けますが(梅田駅から御堂筋線本町駅へ、本町駅から四つ橋線西梅田駅へ、これが最短だと思います。但し、本町駅御堂筋線から四ツ橋線は、元々別の駅だった為、若干遠いです)遠回りとなります。直通電車はありませんというのが正解ですね。通常は徒歩移動です。地下街を歩いていくのが楽ですが、人通りが多いので5分程度は見込んでおいてください。鉄道での乗換移動となると、待ち時間も含めて30分は掛かるかなと思います。

 なんちゃって日本というか、なんちゃって大阪は楽しい。映画における日本の描き方でリアルな描写の日本を求めている人ってそんなに多くはいないんじゃないかなと思ったり。こういう、なんちゃって日本的な描き方を一番楽しんでいるのは日本人なような気がします。コンチネンタル大阪に行ってみたいよー、と。ここでは、背格好でスタントダブルで出演の伊澤彩織さんだと分かる場面があったりします。わざと顔もボカしていないような気もしました。

 主席の全権を担って侯爵がジョン・ウィックを抹殺するために、盲目でかつてのジョン・ウィックの友人であるケインを差し向けます。ケインにはストリートミュージシャン(ヴァイオリン弾き)の娘がおり、その娘のためにも渋々その依頼を受けたのでした。

 ジョン・ウィックの行動により、ニューヨークのコンチネンタルホテルは罰により爆破処分され、コンシェルジュも支配人の目の前で侯爵によって殺されてしまいます。みんなジョン・ウィックが悪いんだ。

 ジョン・ウィックは旧友のシマヅ(真田広之)を頼って、コンチネンタル大阪に立ち寄りますが、その行動はバレていて侯爵が差し向けた一団との戦いに突入。シマヅは満身創痍の中、これまた旧友であったケインと相対しますが、結局、義を選んだことで殺されてしまいます。ケインは見逃そうとしたんですけどね。ケインはシマヅの娘に、(自分に対し復讐したかったら)待ってるとか言ってフラグを立ててしまいます。これも全部ジョン・ウィックのせい。

 コンチネンタルニューヨークの支配人はジョン・ウィックに解決方法を提案します。それは、ジョン・ウィックが元の家族(主席の一族?)に戻ることで、主席同士のタイマン決闘に持ち込んで、勝ったら全てチャラになるよというものでした。こんなめんどいことしないといけないのも全てジョン・ウィックのせい。

 ジョン・ウィックの元の家族はベルリンにいて、今までのことがあって家族から追放(ここで言う家族とは反社会的組織のファミリーみたいな、血の盃を交わすみたいなものです)されていました。そして、長はジョン・ウィックの行いのせいで責任を取らされて殺されていたのでした。やっぱりジョン・ウィックの……。

 ジョン・ウィックが再び家族になるために、前の長を殺した奴を殺してこいという指令を、現在の長が出します。ジョン・ウィックは激闘の末に目的を果たし、家族に復帰したのでした。この家族も寛大だよな、ジョン・ウィックのせいなのに。

 そして、侯爵との決闘が決まりました。約束の時間までに約束の場所に行かないといけません。侯爵は代理人としてケインを擁立しました。また、ジョン・ウィックが約束の時間に約束の場所に着かないようにと、パリ中の殺し屋に賞金を提示してジョン・ウィック殺害を発信します。つか、ジョン・ウィックって問答無用の賞金首になってませんでしたっけ。まぁ、全てはジョン・ウィックのせい。

 なんだかんだあって、ケインとも協力しつつ、約束の時間、約束の場所に辿り着くジョン・ウィック。ケインとの決闘(西部劇でよくあるようなガンファイトでの決闘)はお互い譲らずでしたが、最後のところでわざと自分は撃たずに先にケインに撃たれ、侯爵がケインの代理を解いて自らの手でジョン・ウィックを殺そうとしたところを額を撃ち抜かれて死んじゃいます。この人もジョン・ウィックのせいで……。

 でも、ジョン・ウィックは致命傷だったのか、死んじゃいます。多分。墓もあったし。うん、シリーズ終了です。これで終わっていいとは思います。一作目からは随分とテイストが変わりましたし、二作目と三作目は物語の途中ということもあって、アクションは凄いけどなーと不完全燃焼でしたが、四作目でやっと完全燃焼できました。もういいんじゃないかなと思います、個人的には。

 二作目からシリーズ化を狙って、明らかに路線というか方向性というか、変わりましたよね。矛盾点というか、風呂敷を広げすぎてどう畳むんやろうと思いつつ、今回も正直きっちりと畳んだわけではないのですが、もうこの畳み方でいいっすという気持ちです。

 そんなことを思いつつ長いエンドロールを眺めていたのですが、そういやーシマヅの娘は生き残っているし、ケインも生き残っているので、娘の復讐とかでスピンオフとか作りそうだよなー、Netfilxとかで。と思っていたらエンドロールも終了。

 おそらくパリの公園、ケインの娘は今日もストリートミュージシャンとしてヴァイオリンを悦に入って弾いています。しがらみから解放されたケインはルンルン気分で花束を持って娘のもとへ行こうとしていますが、反対側からからシマヅの娘が隠し刃物を持ってケインに近付き、ケインとすれ違うときに……、という場面で終了です。多分、ケインは殺られちゃいましたね。ということでスピンオフはないかな(笑)。

 シマヅの娘役の俳優の方をどうこうでは全くないのですが、この役を伊澤彩織さんがスタントダブルではなくそのまま演じていたとしたら、アクションもできるし、ドニーさんと夢の対決ということも想像できたなーと思いました。

 いつもと違いべた褒めのような気がしますが、完璧、完全な映画ではありません。熱量(熱気)で押す、所謂脳筋映画です。それにノレルかどうかで評価は分かれると思いますが、これだけの予算や時間を掛けて、スター俳優が出演し、ほぼアクションだけで物語を紡ぐということをやってのけたということで、現時点でのアクション映画の最高峰ではないかと思った次第です。

 最後に、最強オヤジ映画に真田広之さんも参戦してほしいなというのが、率直な感想だったりします(笑)。

 

MEG ザ・モンスターズ2

ちょこっとネタバレしてる程度です。disってもいないかもです。多分。

 

新宿ピカデリーにて鑑賞

 

 

 面白くて楽しい海洋アクション映画でした。ただ、こういう映画を観たかったんじゃないというモヤモヤ感が終始付き纏って、素直に楽しめなかったと言いますか。お好み焼きを食べにお好み焼き屋さんに出向いたのに、出されたのはトンカツで、それはとてもおいしかったのですが、食べたかったのはお好み焼きだったんだよなっていう感じと言いますか……。気軽に楽しめるし、面白いし、人にもオススメできるという映画なんですけどね。

 ステイサムも巨大サメのメガロドンも結構出ずっぱりなのですが、印象が薄いというか。何か焦点はそこに当てていませんよっていう感じなのです。群像劇っぽい作りや、主要なキャラクターをきちっと描いているという影響もしているのかな。

 ふてぶてしくて執念深くタフな悪役もいるし、仲間も定石どおりに裏切るし、ウー・ジンも活躍してるし(裏切って最後はステイサムと一騎打ちすると思ってたw)、本当にそつなく丁寧に、うまくまとめている映画だと思います。テンポもいいし、飽きさせない工夫を展開の中に盛り込んでいるし。2時間くらいの上映時間ですが、そんなに長さを感じさせない作りだったと思います。

 まぁ、本当に終盤はね、観たい場面が目白押しでしたし、わざとなんだろうけどメガロドン関係を少しチープに作っていたりと、Z級サメ映画愛好家にもしっかりとアピールはしているのですが……。

 なんだろう、この歯切れの悪さは。凄くいい映画を観たのに、どんよりとした気持ちになっているのはどうしてなんだろう。disりたくても、そういう箇所がほぼないのよね(笑)。

 悪い点と言えば、ステイサムの対人間のアクション場面でカメラが確実にそのアクションを捉えられていないくらいだし。あ、それと、14歳の少女がとても14歳に見えなかったのもちょっと引っ掛かったというか。ただ、前作にも同じ俳優さんで出演されてるんですね。

 うーん、こういう感覚は久し振りというか、なんというか。

 

ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE

ネタバレしています。少しdisった形になってるかも。

 

 

 

 

 

新宿ピカデリーにて鑑賞

 

 楽しくて面白い映画には違いないとは思いますが、なんかモヤったのも正直な気持ちです。その要因としては、続編があることで本作でお話は完結しないこと(最初から分かってはいるのですが)、今回の敵を強大に見せるために過去作のキャラを生贄にしていること、展開がありきたりなのを隠すためのデコレーションがごちゃついている、といったものかと考えています。

 『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』以降の本シリーズに感じていた、痺れるような感覚が本作からは感じることができなかったというのもあります。PART TWOを観れば(っていうかPART TWOで今回のお話は完結ですよね)、その痺れるような感覚を得られるのかもしれませんけれど。

 流石に還暦前後の影響か、トム様はお老けになられたなというのも遠因としてはあるかもしれません。いや、格好いいんですけどね。ちょっと老け込み方が急なような。まぁ、それでも年齢不相応の若さではあります。

 個人的な感触ですが、『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』以降、本シリーズは少し様相が変わったというか、トム様がライフワークにし始めたというか。それ以前も面白いし、トム様も全力投球だったとは思うのですが、その全力投球の質が変わったというか(以前がダメとかそういう意味ではありません。)。全力投球へのアプローチの仕方が変わったと書いた方が正確かもしれません。

 『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』以前は、ヒットしたシリーズということもあり、映画単体を成功させてシリーズを継続していこうかなという気持ちだったのかなと。『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』以降はイーサン・ハントという役にトム様のこれまで培ってきた俳優としての矜持を込め始めたというか。簡単に言えば、俳優としてのトム・クルーズの集大成を、イーサン・ハントという役で表現しようとし始めたというか。また、映画全体に関しては、プロデューサーとしてのトム・クルーズの集大成を見せようとしているというか。

 今回の内容は以下のような感じで合ってますよね。

 ロシアのステルス潜水艦のAIプログラムが、米国のAIプログラムと出会って意気投合し、世界中のデジタルを意のままに操る存在になりました。それを無効化するには、ロシアの潜水艦のAIだった時代のプログラミングのソースコードが書かれている2つの鍵を使う必要がありました。

 世界各国は虚々実々の駆け引きをしながら、その鍵を利用しようとしたいのか、破壊しようとしたいのか、管理しようとしたいのか分からないまま、IMF(というかイーサン・ハント)を巻き込みながら鍵の争奪戦と、こうなった事態の真相と黒幕を探し始めたのでした。

 「それ」と呼ばれる存在と、その手先の駒となって暗躍するガブリエルに、イルサまで殺されるといった煮え湯を飲まされ続けるIMFメンバーですが、最後の最後でやっと一矢報いることができました。2つの鍵は一つとなってイーサン・ハント、IMF側に渡りました。果たして誰がどんな目的で今回の事態を演出しているのか。黒幕は誰なのか、「それ」なのか。

 ラスボスは「それ」(劇中でそう呼ばれている自我を持ったAIプログラム、なのかな、それとも別に黒幕がいるのか)なんだろうけど、表立って戦う敵はイーサン・ハントがIMFに入るキッカケを与えた天敵みたいな存在のガブリエルというおっさんなんですが、このおっさん、巨大な運搬用のハードケースみたいなもの(つーか棺桶だよな、あれw)の中で酸素吸入機みたいなものを付けて寝ているんですよ。吸血鬼みたいだなと。もしかして、普通の人間ではないのかもしれません。本シリーズでそういう存在が登場するとは考え難いのですが。

 と考えましたが、単にオリエント急行への侵入を容易にするために運搬用のハードケースの中に紛れ込み、その中が密閉状態になるので酸素吸入していたということかな。でも、マジで吸血鬼リスペクトかよっていう場面でした。トム様も以前は吸血鬼役をやられていて、原作者からイメージと違うってパシリムみたいなことを言われたこともありましたね(遠い目)。

 イルサが本当に殺されたのかどうか分かりませんが、この展開もうーんですね。つか、この展開が一番うーんというか。身勝手ないけすかない女性スリ(登場人物であって俳優さんのことではありません)をメンバーに加入させたいからといって、既存の重要なメンバーを追い出してまでやる必要があったのかどうか。演じている俳優さんの都合もあるのかもしれませんが、それならひっそりとジェレミー・レナーのように退場させればいいのではないかなと。そう言えば、ジェレミー・レナーの役も当初は殺される予定があったというのを思い出しました。うーん。製作陣は定期的にメンバーを殺したいのだろうか。

 CIAからイーサン・ハントを追い掛ける二人組がなかなかいい味を出していました。PART TWOではもっと絡んでくるのかな。もしかして、IMF入りするんかな。映画冒頭でIMF入りを選択した若者も絡んでくるのだろうか。

 PART TWOは米国では2024年6月28日の公開予定だそうです。ただ、おそらくもう撮影は終わっているというか、PART ONEと一緒にというか連続して撮影していると思われます。その方が費用面でも少しは安く抑えられるでしょうし、何より楽でしょうし。PART TWOは1年後かー。長いなー。早く観たいなー。

 

マッド・ハイジ

ネタバレしています。あれ、面白かったのに意外とdisってるかも。

 

 

 

 

 

新宿武蔵野館にて鑑賞

 

 のっけからのスイスエクスプロイテーションというハッタリから、もう特定の層に向けて作られた映画という匂いをプンプンとさせているのですが(クラファンだから当たり前と言えば当たり前ですが)、意外と映画としての出来をしっかりと意識しているというか、同じイロモノ系の『ムカデ人間』と同じ香りがしたというか。

 『ムカデ人間』も尖ったイロモノ系ですが、中身は意外と起承転結をはっきりさせ、キャラクターの関係性もきっりちりと見せて、映画の文法(と言っても私もよく分かっていませんが)に沿って、観客に提示することを前提とした作りをしていたのですが、本作にも同様の印象を受けました。

 惜しむらくは、中盤以降若干中弛みしてしまうのと(修行場面とかは燃えますが)、ラストの盛り上がりが少し欠けていたというところです。こういう映画はラスボスも大事だと思うのです。ニューなんちゃらかんちゃら(名称失念)というキャラクターがそういうポジションだったのでしょうが、大統領もバリバリの武闘派強者で、ラストでのハイジとの一騎打ちを期待していただけに、余計に残念に感じてしまいました。

 あとこれは仕方がないかもですが、ハイジ役の俳優さんの動きにキレがなかったというか。アクション面も売りにはしている系の映画でしょうから、もう少しアクションの見映えがよければねー(公式サイトによるとテコンドーの黒帯二段らしいですが)。刀を振り回しているのはほぼ修行場面のみで、もっとバトルシーンで振り回してほしかったなぁというのも残念ポイントでした。

 観る前は、まーそこそこ楽しめればいいかなという感じでしたが、本当に中盤までは最高傑作じゃないかと思いつつ、いい意味で期待を裏切られました。結果的には、最高まであと一歩及ばずといったところで終わってしまいました。うん、最後の締め括り方だよなー。

 ハイジはアルプスの山奥で祖父に育てられ、恋人のペーターとキャッキャウフフの毎日でした。ペーターは禁制品である極上のヤギのチーズを裏ルートで販売しており、チーズ会社の社長であるスイス大統領から睨まれ、ハイジの眼の前でクノール警備隊長(だったかな)にぶっ殺されてしまいます。

 クノール警備隊長に追い掛けられたハイジは祖父の元まで必死に逃げますが、祖父も過去はレジスタンス的な活動をしていた割りには射撃の腕前も芳しく無く、あっさりとクノール警備隊長にやられちゃいまして、ハイジも強制収容所送りとなりました。クノール警備隊長と祖父は顔見知りというか、祖父からしたら娘夫婦を殺した仇敵です。

 同じ部屋の筋骨隆々な人にいじめられたりしながらも、持ち前の反骨心から強制収容所の所長をぶっ殺し脱走に成功したハイジでしたが、またしてもクノール警備隊長に追い詰められ、滝に落下します。こういう映画とかでは滝に落下する=生き延びるということです(笑)。

 命からがらハイジが辿り着いた先は山中の林の中の小さな教会で、そこには妖精のおばさん(ですよね)と従者二名がおり、何故か武芸の猛特訓の末にハイジは従者二名掛かりでも余裕で勝てるほどのツワモノになったのでした。

 ハイジは自分の力を試すべくクノールの部下達を襲い瞬殺しますが、クノール警備隊長が呼んだ、今は入国審査で拒否スタンプを押す仕事をしているニューなんちゃらかんちゃらに、自分の力を過信した油断からかワンパンでやられちゃいます。

 フランスからのチーズ輸出に関する使節団を闘技場に招いたスイス大統領は、余興としてスイスレスリング(国技だそうです)を披露。その目玉としてハイジを登場させます。かつて、強制収容所でいじめを受けていた相手二人を圧倒したハイジは、またしても登場してきたニューなんちゃらかんちゃらに苦戦します。

 劣勢だったハイジですが、先程倒された強制収容所でハイジをいじめていたうちの一人がハイジに加勢し、やっとニューなんちゃらかんちゃらを撃破。ハイジの両親を殺していた奴だったクノール警備隊長も国旗で串刺しにしました。

 そして、何故か生きていた祖父と彼が率いる昔のレジスタンス軍団で大統領を追い詰め、大統領もぶっ倒し、スイスをチーズの洗脳から救うのでした。

 一人逃げ延びていた、大統領の下で洗脳チーズを開発していた科学者を、クララと共に追い詰めて映画は終了です。次回作はハイジ&クララだそうです(実際に作られるかどうか知りませんw)。

 

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム

ネタバレしています。disってはいないと思います。

 

 

 

 

 

 

アマゾンプライムビデオにて鑑賞

 

 『アベンジャーズ/エンドゲーム』のあと、ネット配信用ドラマとかで増えていくシリーズに付いていく気力がなくて(当時はディズニー・チャンネルに入ってなかったという事情もありますがw)、その後の展開はほぼほぼ観なくなって久しいのですが、本作はまぁ初っ端からネタバレかますと、マルチバースということで過去作のスパイダーマンが当時と同じ俳優を起用して登場してくるということで観たくなりました。

 アメイジングスパイダーマンシリーズの救済というか、劇中ではトビー・マグワイア版やアンドリュー・ガーフィールド版のヴィランが多数登場してきて、トム・ホランド版のスパイダーマンが彼らを元の世界に送り返す前に、彼らの特殊能力を治癒して救おうという行動に出たわけですが、流石マルチバースを題材にした映画というかメタ的というか、実際の現実世界をも巻き込んで、本当に救ったのは『アメイジングスパイダーマン2』においてMJを助けることができなかったスパイダーマン(ピーター・パーカー)を救うというか、あの映画やアメイジングスパイダーマンシリーズ(つっても二作しかないですがw)そのものを救う形になっていたのは、あのシリーズが好きだった自分からしたら涙ものでした。いや、『アメイジングスパイダーマン2』を鑑賞して悲しんだ私のような観客を救うための映画だったかもしれません。本作の完成度とか、もうそんなんどうでもいい、そんな気持ちになりました。

 本作のピーター・バーカー(トム・ホランド版)は最後は世界中の人々の記憶から消え去るわけですが、米国の身分証明書もないでしょうに、それで身分を証明できているのかどうか、どうやって部屋を借りることができたのか、お金はどうしたのか等々、色々とそこにツッコミたくなりましたが、はい、そこはツッコミポイントじゃないですよね。

 前作のラストでスパイダーマンであることを世界中にバラされてしまったピーター・バーカーは、普段の生活にも大きな影響というより支障が出るようになり、スパイダーマンの知り合いということで友人や恋人が大学への入学を断られるという事態に思い悩んだ結果、ドクター・ストレンジに過去の改変を依頼します。

 ドクター・ストレンジは過去の改変は断りますが、ウォンの横槍もありスパイダーマンの正体がピーター・バーカーであるという記憶を消し去る魔法を使用することにします。そのとき、全員の記憶消去を恐れたピーター・バーカーは、世界中に正体が知れ渡る前に自分の正体を知っていた人の記憶は残してほしいと嘆願します。

 度重なる直前の変更案件に苛ついたドクター・ストレンジは正しく魔法を発動させることができずに中止します。ただその影響からか、この世界だけではなく、マルチバースの世界からピーター・パーカーを求めて何人かの有名なヴィランの皆さんが来訪してきます。

 ドクター・ストレンジマルチバースから来たヴィランの皆さんを元の世界に帰っていただける箱を魔法で作り発動させようとしますが、ピーター・パーカーはメイおばさんの言葉もあり、そのまま帰らせるのではなく、ヴィランとしての能力を消し去ってから戻そうとします。

 反対するドクター・ストレンジからなんとか箱を奪い、彼をグランドキャニオンに閉じ込めることに成功し、ヴィランの皆さんと共に能力をなくすための治癒薬を研究開発を開始するのでした。

 ヴィランの皆さんは半信半疑でしたが、いつしか協力し、先ずはドクター・オクトパスの治癒に成功します。その成功の余韻をかって引き続き研究開発を進めますが、グリーン・ゴブリンが能力をなくすのは嫌だと反抗し、エレクトロもそれに便乗、その際の騒動の末にグリーン・ゴブリンの攻撃でメイおばさんは亡くなってしまいます。

 そんなとき、トビー・マグワイアアンドリュー・ガーフィールドも(めんどいので俳優名で書きますw)この世界にやってきていて、トム・ホランドと合流し、一緒にヴィランを治療しようと一致団結します。

 治癒薬が完成し、ヴィランの皆さんを自由の女神像におびき寄せ、途中改心していたドクター・オクトパスの助太刀もあり、なんとかヴィランの皆さん全員に治癒薬の投薬を完了します。

 いよいよドクター・ストレンジによって元の世界に戻そうというときに、色々と問題があって全人類からピーター・パーカーの記憶がなくなってしまうという方法しかないことをトム・ホランドは告げられます。

 トム・ホランドはそれでも魔法を続けて、ヴィラン達やトビー・マグワイアアンドリュー・ガーフィールドを元の世界に戻してくれとドクター・ストレンジに頼み、そのまま魔法は実行されました。

 友人や恋人、誰もがピーター・パーカー(トム・ホランド版のことですが、もう彼のバージョンしか出てこないのでピーター・パーカーと記します)のことを知らない世界でスパイダーマンとしての活動を続けるピーター・パーカー、というところで映画は終了です。

 いやー、ラストにMJとかに会いに行くんですが、MJもネッドも当然知らないんですよね、ピーター・パーカーのことは。その切なくて孤独な雰囲気が、昔のビル・ビクスビー&ルー・フェリグノ版のTVシリーズ超人ハルク』っぽくて結構好みでした。私の中のヒーローってこういうイメージが基礎にあるかもなって思いました。ビル・ビクスビーが街中をただ歩くだけで、周りの空気も哀愁と切なさを帯び、孤独感が増すというあの魅力が。トム・ホランドとビル・ビクスビーの背格好が似ているというのもあるのかもしれません。

 一旦のエンドロールのあとはヴェノムが登場して、酒場でスーパーヒーローのことについて店員さんに色々と聞いている場面となります。おそらく、ヴェノムは複数のマルチバースの世界を勝手に飛ばされ続けていて、この本作の世界にも引き込まれてきたのかなと(『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』とも若干リンクしているようで、その映画を観れば詳細は分かるかもしれません)。生憎この世界のピーター・パーカーには会えなかったようですが、この世界からの去り際にヴェノムの一部?を残してまたどこかのマルチバースの世界へ消え去ってしまいます(元の世界に戻った?)。

 スタッフロールのあとは、ドクター・ストレンジの魔法によってマルチバースに大変な影響が出たよということで、ドクター・ストレンジの映画の予告編みたいな感じになっています。こちらも面白そうなのですが、配信ドラマの『ワンダヴィジョン』ともリンクしているようで二の足を踏んでいます。マルチバースも一つの世界という描き方のような気がしてきましたね。それはもうマルチバースではないのでは(笑)。

 あ、そうだ。ディズニー・チャンネルには本作はアップされてなくて、アマプラにはあったというね。これも観たくてディズニー・チャンネルに入ったのに。どういうことだよ。

 

【KENSHI】光剣【ゲームプレイ動画】

【KENSHI】光剣 パート1【ゲームプレイ動画】

https://www.youtube.com/watch?v=zQPPmbXWclo

 

 KENSHIをプレイし始めるキッカケがYouTubeでのプレイ動画だったということもあり、自分もとうとう手を出してしまいました。勢いに任せて突っ走りましたので、録画段階から編集、ナレーションとか拙い箇所が多々ありますが、自分で言うのもなんですが、なんか感慨深いです。

 

※今回の設定は以下のとおりです。

商人だった親はテックハンターからガラクタの類を買い取った。

その中に一際光り輝く筒のようなものがあった。

親はその筒を手に取ると表情が豹変し、その筒からは光の剣のようなものが出現し、いきなり周囲の者を殺戮しはじめた。

あらかた周囲の者を殺戮し終えると、娘である彼女の右腕を切断した直後に自害した。

彼女を殺めなかったのは親としての最後の抵抗だったのだろうか。

彼女はその筒、光剣を手に取り、この光剣を使いこなすことが親への供養、そして光剣への復讐になる。

そう考えた彼女は、修行の旅に出ることにした。

 

 まぁ、ライトセーバーでグッサグッサ切り刻んでいってやろうという動画です。そこまで果たしてメインキャラが成長するのかどうか、こうご期待ということでよろしくお願いします。

 

ザ・フラッシュ

ネタバレしています。disっています。さり気なく『アベンジャーズ/エンドゲーム』のネタバレもチラっとしてしまっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿ピカデリーにて鑑賞

 

 様々な制約や条件があったりしたと思われますが、製作者側に俯瞰して展開や内容を確認する人がいなかったのかなと思ったほどに、ごちゃごちゃしていたというか。具が煮えきっていないごった煮の料理を出されたような感じです。もうタイムトラベルとかマルチバースとかやめようよと言いたい。タイムトラベルしちゃう『江ノ島プリズム』が大好きな私なのに(笑)。

 タイムトラベルにしてもマルチバース(並行世界的なものも含む)にしても人それぞれの定義というかイメージみたいなものがあるでしょうけど、タイムトラベルのイメージなりはそれなりに一般化してそうだけど、マルチバースはまだ一般的にこうだという共通項として定まってはいないのかなと思うのです。それを映画の本編内で定義付けしつつ前提化して、タイムトラベルと絡めて展開していくというのはかなり無理があるでしょうし、今回もえっ?てな感じの決着の付け方だったのがイヤでした。

 ここからあらすじを書いていきます。いきなりネタバレですが、バリー・アレンは3人(というか3タイプですね、2人登場し、うち1人の若い頃と老いた頃が同時に出現)登場しますので、映画の冒頭の世界(『ジャスティス・リーグ』の世界というか、基準となる世界ですね)のバリー・アレンをそのまま「バリー・アレン」、映画のほぼ舞台となる時代の世界の18歳のバリー・アレンを「18歳バリー」、超時空間(?)のバリー・アレンを「おっさんアレン」と記します。

 母親殺しで父親が収監され、明日が最後の裁判(再審)という日、ブルース・ウェインから送られてきた父親のアリバイを証明する、犯罪時刻に父親がいたとされるスーパーでの防犯カメラによる映像は、現代技術で映像に鮮明な処理を施しても映っている人物の顔がはっきりと見えていないため(顔が下を向いているからとカメラの角度から)、決定的な証拠にはなり得ないだろうということにショックを受けるバリー・アレン

 自暴自棄的な走り込みから過去に戻れる能力に気付いたバリー・アレンは、ブルース・ウェインの忠告も左から右に受け流し過去に遡り母親を助ける行動に出てしまいます。

 母親を助ける行動に成功したバリー・アレンは現代に戻る途中の超時空間で何者かに邪魔され、バリー・アレンが18歳の頃、フラッシュの能力を得たその日に投げ出されます。それは母親が生きていた世界でした。

 投げ出された場所が自宅前だったこともあり、バリー・アレンは久し振りに母親の温もりに触れながら、今日この日が自分が能力を授かった日だということを知り、未来の自分が能力を失わないために18歳バリーにも能力を得られるよう準備します。この時点でのバリー・アレンは自分がいた世界と同じ世界と思っています。しかし、能力を得るために浴びた雷によって、18歳バリーは能力を得たものの、逆にバリー・アレンは能力を失ってしまう結果となります。

 そんな中、ゾッド将軍の襲来が迫り、それに対抗するためにジャスティス・リーグのメンバーを探すバリー・アレンですが、過去を変えた影響からか、ワンダーウーマンもアクアマンもサイボーグもこの世界には存在していないようでした。徐々に自分がいた世界とは異なる世界だと思い始めるバリー・アレン

 バットマンはこの世界でも有名で実在していたのでブルース・ウェイン宅を訪ねますが、この時代のブルース・ウェインはもう引退した身でした。しかも、バリー・アレンが知っているベン・アフレック版ではなく、マイケル・キートン版のブルース・ウェイン(以後、キートンマンとします)でした。

 ゾッド将軍が来たということはスーパーマンはいるだろうと調べた結果、ロシア(ソ連だったかな)の監獄に監禁されていることを知り救助に向かいますが、そこにはスーパーマンはいませんでした(スーパーマンは幼い頃にゾッド将軍に屠られたみたい)。監禁されていたのは若い女性でした。彼女もスーパーマンと同様の強さを持っており、その力もあってロシアの監獄から脱出することに成功します。若い女性はスーパーマンのいとこであるスーパーガールでした。彼女はスーパーマンを守るために地球に送られてきたのでした。しかし、こんだけ強いのになんで監禁されてたんだろう。クリプトナイトの影響?かな。って、クリプトナイトって劇中には出てきてなかったような。

 キートンマンやスーパーガールに協力してもらい能力を再び得たバリー・アレンは、キートンマン、スーパーガール、18歳バリーと新生ジャスティス・リーグっぽいチームを組んでゾッド将軍の軍勢との戦いに挑みますが返り討ちにあい、キートンマンもスーパーガールも敗北し亡くなってしまいます。

 諦めません勝つまでは精神で時間を逆戻りさせればええやんと、ちょっとスーパーガールに惚気っぽくなっていた18歳バリーは何度も何度も時間を巻き戻しますが、全てゾッド将軍側の勝利に終わります。そこで、バリー・アレンは気付きます。これは何度やっても結果は同じで、キートンマンが言っていた時間軸の交差ポイントにより、どうやっても不変だということを(多分、こういう解釈だったかと)。

 それでも諦めきれない18歳バリーと、諦めようとしていたバリー・アレンの前に(ああ、ややこしいw)、バリー・アレンが自分の世界の現代に戻ろうとしたときに邪魔した奴が登場します。そいつこそは、18歳バリーの成れの果てであるおっさんアレンでした。「諦めたらそこで試合終了ですよ」を人生を賭けてやり続けていた結果、超時空間の主っぽくなってしまっていたのでした。

 バリー・アレンは、おっさんアレンに諦めようよと問いかけるものの聞く耳持たず殺されかけますが、18歳バリーが身代わりの盾となり亡くなります。そのことでおっさんアレンも消滅してしまいます。自分殺ししちゃったわけですもんね。しかも若い頃の自分を。

 バリー・アレンはこの事態を収拾するには、過去に戻って母親を救った行為をなかったものとするしかないということで、再び母親が殺される日に戻り、自分がした行為をなかったことにして、ようやく自分のいた世界・時代に戻ることができました。ただし、スーパーの防犯カメラの位置調整はしてしまいました。

 その結果、スーパーの防犯カメラの映像にも父親の姿がはっきりと映し出されており、アリバイの証明として重要なものとなり、再審において父親の無罪がほぼ確定された(んですよね?)ことで、バリー・アレンもやっと母親の死を受け入れることができたような感じです。

 最後、バリー・アレンの前に現れたブルース・ウェインはなんとジョージ・クルーニーでしたというオチです。元に戻したと思っていましたが、スーパーの防犯カメラの位置を修正したかのが原因なのか、何らかのバタフライ効果で微妙に当初の世界とは少し異なっていたようです。エンドロール後ではアクアマン(本作でもジェイソン・モモアが演じています)とお酒を飲み、泥酔している彼を見て、この人は本物だと言って映画は終了です。ところで、ヴァル・キルマーって出てましたっけ?

 簡単に言えば母親の死を受け入れて前に進み出すというお話で、終盤の母親とのスーパーでのやり取りはちょっと泣きそうになりましたが、ただ、映画本編での積み重ねがほぼないのがねー。

 バリーの父親役が、ビリー・クラダップからロン・リビングストンに変わっていました。どういう事情なのかは知りませんが、こういう映画でメタ的な意味で変わってしまっているのはマイナスポイントかなぁと。色々と事情はあるのでしょうけど。映画本編の世界も、前の映画内の世界(『ジャスティス・リーグ』)とは異なるのかなと思ったりしてしまうじゃないですか。あ、しないか(爆)。まぁ覚えて言える人はいないかもしれない配役ですが、ビリー・クラダップは好きな俳優さんなので覚えていたんですよねー。

 一応ラスボス扱いであるゾッド将軍ですが、バリー・アレンらが倒すわけでもないんですよね。18歳バリーの世界の地球はゾッド将軍によって惑星改造されてしまうという結果になるのですが、いやいや、映画としてそういう終わらせ方でいいのかよ、と。こういう脳筋系映画はぶん殴って分からせるのが正当な解決方法じゃないのかと(ちょっと誤解されそうw)。残尿感があるというか、ね。

 『アベンジャーズ/エンドゲーム』もタイムトラベルしてって流れですが、しっかりと最後は脳筋バトルで決着していますので、スカっとはしないかもしれませんが、まだ納得というか、残尿感はありませんでした。

 バリー・アレンの行動によって、18歳バリーやおっさんアレンらの世界は救われないものになってしまったわけですが、それは劇中で語られているように運命というもので決められていたのかもしれないけど、こういうエンタメ映画は残尿感が残らないような作りが個人的には好みなので、どうにもモヤります。

 バリー・アレンというキャラは、母親を小さい頃に殺され、父親がその犯人に間違われて投獄され辛い人生を歩んできましたが、18歳バリーからすれば両親の温かい愛情を受けて育ったけど、並行世界の自分に邪魔された挙げ句に若くして死んでしまう(年老いたバージョンもいたけどw)ということになり、どっちがよかってんという投げかけもないまま終わるというメタ的にも報われないキャラになってしまってますので、それもモヤります。そもそも、映画の舞台となった世界(もしくは時代)は存在しなかったとものとして扱われる設定なんでしょうか。

 DCユニバースの映画におけるバリー・アレンのキャラクター性を考えて、バリー・アレンを中心というか主人公に据えた映画を作るとしたら、こういう展開、内容しかないのかなとも思い始めてきましたが、鑑賞中はずっと無理があるよなーという気持ちが消えることはありませんでした。映画内のバリー・アレンのキャラクターはメインという役割は難しいし、狂言回しかサブ(悪い意味ではありません)として動かすのが適しているのかなと感じました。

 冒頭のアクション場面ですが、なんか00年代中期頃のCG臭が抜け切らないような人の動きでしたが(個人的には不気味の谷現象っぽくて気持ち悪いんですよね)、予算がなかったとは思えないのでああいう動きを意図したんでしょうけど、なんか重みがないアクションになっていて勿体ないなぁと思いました。冒頭での掴みのところなので、そこから私はこの映画への没入に躓いてたんかなぁ。

 最後によかったところを。エズラ・ミラーの演技力もありますが、バリー・アレンと18歳バリーとのバディスタイルは面白かったです。それから、マルチバースということで、ニコラス・ケイジ版のスーパーマンが登場したのもよかったです。誰得か分からないけど(笑)。少なくとも私は本作の中で一番楽しんだ場面です。ほんの少しだったけど、ニコケイは救われたかもしれませんね。

 あ、バリー・アレンは童◯ということが映画冒頭で暴露というか、自分から告白しちゃいます。これが最大のネタバレですね。

 

全日本プロレス 6.17大田区総合体育館大会

 この大会の一番の目玉はやはりメインの三冠戦、王者の永田裕志選手に挑む、デビュー9ヶ月の期待の星である安齊勇馬選手の試合でしょう。安齊勇馬選手が三冠を戴冠すると思ってたんですけどねー。

 大会は正直、これがプロのレスラーなのっていう人が出てくる試合とか、全日本プロレスでこの形式の試合はいらんやろとか、元海外団体のスーパースターの高級ジョバー化(以前からそうだけど)を加速化させて退団してもらおうと思ってるの?とか(所謂肩叩き)、新時代と言いながらその新時代の選手を噛ませに使ってどうするのとか、過去の団体への貢献度は抜群だけど、わざわざ今更海外から呼んでも集客力なんてないでしょ、実際あんまし動けてないほぼ引退している選手をヨイショしてどうすんのよ、タニマチ向け?っていう試合を見せられてきて、心が折れ掛けていました。

 ところが、セミ前の石川修司デビュー20周年記念試合第2弾である、石川修司諏訪魔組の復活暴走大巨人対関本大介岡林裕二組の大日本プロレスストロングBJの対戦が、その折れ掛けていた心を復活させてくれました。

 こういうプロレスを、こういう試合を見たいから全日本プロレスのファンになったんだよと、つい叫んでしまいましたよ。あ、いや、関本選手も岡林選手も他団体(大日本プロレス)の選手ですけどね(笑)。

 「素晴らしい」という言葉以外、必要のない試合だったと思います。これで、岡林選手は全日本プロレスでは見納めになるのかな。無期限休養宣言ですが、実質的な引退でしょうし。

 セミは、ゼンニチ新時代を掲げ、ヘビーもジュニアも関係ないということで決まった世界タッグ戦、王者である健斗&青柳優馬組のビジネスタッグに、世界ジュニア王者である青柳亮生&ライジンHAYATO組のジュニアコンビが挑戦するという試合でした。

 この試合も素晴らしかったです。ただ、いつもの、と書けば語弊がありますが、この4選手が見せてくれるこれまた素晴らしい試合ではあるのですが、わざわざゼンニチ新時代とかいう惹句を付けなくてもよかったんじゃないのかという疑問が残りました。

 新時代の扉を開けられたとかではなく、そもそもこの試合に新時代の扉なんて存在してなかったじゃんとしか感じられませんでした。これまでの味付けの何が悪かったの?としか。新しいもの=いいもの、ではないですよね。勿論、古いもの=いいもの、でもありませんが。そんなこんなで素直に楽しめませんでした。いい試合だったのになー。

 メインの三冠戦、王者:永田裕志対挑戦者:安齊勇馬の一戦は、安齊勇馬選手のデビュー戦と同じ取組で、その試合が前日に全日本プロレスYouTubeにアップされたので改めて見ますと、永田選手が動けていることにびっくり(笑)。

 

 

 今回の試合も動けていたことに更にびっくりというか、王者としての風格、貫禄、余裕、そういったものがぎっしりと詰まっていたように見えました。なんだよ、これまでと違う仕上げ方じゃねーかよ。いつもさ、こういう感じできてくれれば、一部の全日本プロレスファンからも拒絶されないのにと思いました(こらこら)。

 安齊勇馬選手も攻めて勝機を掴み掛けていたようにも見えましたが、この試合に限っては全ては王者である永田選手の掌の上での出来事のように見えました。ムーンサルトは安齊勇馬選手くらいの大きさの選手には膝への負担がかなりあると思いますでの、できれば使わないでほしい技です。

 個人的には安齊勇馬選手に戴冠してほしかったですし、それこそ新時代の幕開けが印象付けられたと思うのですが、まぁ言ってもまだデビューして9ヶ月ですよ、それでビッグマッチのメインを務められるくらいの選手になってるわけですから、贅沢は言うな、ですよね。

 次の三冠挑戦は青柳優馬選手です。彼なら奪還してくれるでしょう。というか、ここで奪還しないともう三冠を巻けない選手という印象をファンに植え付けてしまうことになるでしょう。実は青柳優馬選手にとっては背水の陣ではないかな、と。

 個人的に全日本プロレスにはヘビーはヘビー、ジュニアはジュニアとしてやっていってほしいです。選手層を考えると他団体のように無差別でやっていくという台所事情ではないと思いますし、他団体との差別化というか、全日本プロレスとしてのブランディングはそこじゃないのかなと思うのです。

 まぁ、秋山前社長時代にそこを推し進めていった結果、やはりダメだったという経営判断によるのかもしれませんが、そういった試合が見たいから全日本プロレスのファンになった自分としてはもう一回そこを推し進めてほしいなぁという希望です。

 ゼンニチ新時代を掲げながら、ゼンニチ旧時代のプロレスの凄さをまざまざと証明してしまった大会だったように思います。ここで言う旧時代は秋山元社長以降の、オールジャパン・プロレスリング株式会社体制以降の、ということです。

 今の全日本プロレスの主人公は安齊勇馬選手に確実に変わったと思います。健斗は前作の主人公ポジになったように思います。そして、不気味なのが青柳優馬選手。主人公を喰っちゃう感じの副主人公ポジにちゃっかりと収まってるなぁ、と。諏訪魔選手は大魔王のままで、裏ボスが石川修司選手です。

 

aftersun/アフターサン

ネタバレっぽくなっていますが、実際のネタバレとはちょっと違うような。でも、観ていない人にとってはネタバレか、というような内容になっております。映画の感想というよりかは、本作を鑑賞して私はこういう設定、内容だったのではないかというのをつらつらと書いているものとなります(考察的な感じ?)。本作について映画本編以外の情報(監督の発言等)を調べたりはしておりませんので、本来の設定や製作陣が意図したものとは異なる部分も多々あるでしょうが、ご了承ください。

 

 

 

 

 

 

新宿ピカデリーにて鑑賞

 

 名作になるには一歩及ばずかなというのが率直な感想です。ざっくりと誤解を恐れずに書けば、初期のジャームッシュやハートリーの作風に70年代のアメリカンニューシネマ的なふりかけをしたって感じです。あ、いや、ハートリーの映画の皮を被ったジャームッシュの映画に、アメリカンニューシネマ風味の粉を入れてシャカシャカポテトしたって感じ、かな。

 極論を言えば察して系の映画で、シンプルに見えるようで結構階層深く作ってるけど説明はほぼしないという内容です。ただ、それを理解しなくても楽しめますよという作りにしているのはうまい、本当にうまい。

 この時期(タイミング)にしか撮れないであろう映画で、ノスタルジックな物語を表面に塗布し、切なさの調味料をまぶすことで、狭間で踠く年頃の視点からのセンシティブな題材を狂おしいまでに美しい様に見せようと上手に料理していると思います。映画的な表現テクニックが抜群にうまい、本当にうまい。

 鑑賞中、イーグルスの名曲「ホテル・カリフォルニア」を思い起こしていました。あのホテルに一時でも滞在したとしたらこんな感じなのだろうか、と。

 本作の視点は娘であるソフィーのものがほぼですが、だからこそ、視点の先にある父親の印象がより強くなるんだと思います。

 また、劇中に漂う不穏な空気感が終始観ているこちら側の肌をヒリヒリさせてくるような感覚になりました。父親は太極拳?の動きみたいなのをよくしているのですが、娘が異国の地で誘拐されてそれを救出する展開とかになるんじゃないか、実は父親は元CIAだった、なんていう妄想を抱くくらいに劇中にずっと不穏な空気が充満しています。(あかん、そういう映画を観すぎなんやw)

 父親はあまりいい少年時代を過ごしてこなかったのでしょう。おそらくグレてて、今もカタギの仕事はしていないのかなというのを匂わせています(完全に反社ではなく、普通の会社員というよりも個人事業主でちょっと危ない系、ブラック系の仕事にも首を突っ込みかけているっていう印象を受けました)。それで借金やらなんやかんやで結構追い詰められている部分があるのかもしれません。

 ソフィーの母親とも実際には結婚していなかったのではないかと推測します。若い時の過ちみたいな感じでソフィーが生まれて、ソフィーは一応父親側の姓を名乗ってはいるけど、親権(扶養義務でしたっけ?)は母親にあるようなので、父親ともおそらく一緒に住んでいた時期はほぼなく(というかないと思う)、そのことからソフィーは母親ともうまくはいってないけど、母親と一緒に住む選択肢しかないのでしょう。

 父親も本音は望んでいなかった子供で、どう接していいのか手探りなんだろうなと思いました。お互いに大切で愛おしい存在なんだけど、ギクシャクした関係でもあり、二人共になんらかの義務感で父娘の関係を続けているといった感じに見えました。

 ソフィーは11歳という年齢から、少女から若者(ティーンエイジャーは13歳から)へと移行する狭間の段階で、どちらにも属せないもどかしさと切なさと寂しさを痛いくらいに心に刻んでいる時期です。その頃に見える景色というか感触は、大人になって明確に覚えてなくても、なんとなく手触り感みたいなものはずっと片隅に残っているような感覚があります。

 ソフィーはおそらく現在は31歳(劇中の父親も31歳だろうと思われる)で、パートナーは同性の人で同棲中(ギャグじゃないっすw)。父親も同性愛者だったのかもしれません。そういう対比なのかな。だから、母親とは結婚しなかったという理由にもなりますしね。

 でも、そういう直接的な表現はなかったように思いますし、劇中では女性にアタックしかけていたようなことをソフィーと談笑していたように記憶しております。それは同性愛者であることを隠したかったということ(本編内の時代的にね)かもしれませんが、その設定によって映画的に現代パートのソフィーの環境がクローズアップされる要素とはなりますけど、どうなんでしょうね。このあたりの表現は見る人によって大きな幅があると推測しますので、わざと曖昧にぼかしているのかもしれません。赤ちゃんの泣き後も聞こえていたので、どちらかの子供で、ソフィーのように望んだ子供ではなかったけど母親側が育てているという、これも対比だったのでしょうか。

 父親としては自身が親になるというのもまだ受け入れられていないのかもしれません。それが太極拳ムーブを連発したり、ソフィーのことを気にかけながらも自分が中心の動きをどうしてもしてしまうといったところからの想像となりますが。

 そういう大人や親になりきれないということも理由の一つとして、父親には情緒不安定な部分があるのかもしれません。冒頭、右手を骨折してギプスをしているのですが、そのことを暗喩として表現しているのかな。突然感情が爆発して海の中に突入していったりしてましたしね。これもソフィーの年齢的な表現との対比かもしれません。うーん、ここらへんの描写は察してじゃなくて、もう少し明確にした方がよかったようにも思います。

 現代パートのソフィーは、自分が11歳の頃のバカンスのビデオを寂しげな表情(プラス生活というか人生に疲れてるような表情)で見ていることから、既に父親は死んでおり、自分があの時の父親と同じ年齢になったからこそ、その時のビデオを見返しているというお話ではないかなと思ったんですよね、最初は。

 ビデオカメラやビデオテープは父親が持っていたけど、それを今はソフィーが持っていることから、父親は既に亡くなっている設定だと推測しました。おそらく死後の形見分けなのでしょう、ビデオ関係は。ビデオテープのダビングもめんどくさいですし、そんなことしてなさそうだし(これはかなりの偏見w)。

 と考えていくと、ソフィーがこのビデオの映像を見ること自体、初めてだったのではないかなと思い始めました。映画的なインパクトもこの方がいいようにも思えましたし。あ、初めてということは、父親が亡くなったのは最近のことになるのか。そして、自分があの頃の父親と同じ歳になったことで、懐かしくも切なく思い返してるということかな。でも、それなら31歳というタイミングは都合よすぎるか。

 それか、父親はかなり以前になくなって、自分が31歳になった時にふとあの頃のことを思い出して、そういやー録画したもんがあったなーと見返してる、ということなのか。うーん、実際の設定はどうだったんだろう、と言いつつ調べてないけどね(笑)。正解の答え探しの映画ではないと思いますしね。

 どちらにしても、記録として残っている映像の中の父親と同じ歳になって、昔を思い出しながら、あの頃の父親はどう考えていたのだろうか、どう感じていたのだろうか、ということを哀悼を込めてソフィーは回顧しているという設定には違いないと思います。

 この11歳の時の父親との休暇旅行が、ソフィーにとってはおそらく父親と会った最後の時だったのでしょう。だからこそ、特別に記憶に残っているのではないでしょうか。もし、何か言いたいことがあれば、劇中で父親が言ったとおりに実際に会って話せばいいと思うのですが、それができない理由というのは、この休暇後に父親と再び会うことは叶わなかった(連絡が取れなくなったとか、檻の中に入っていたとか、国外逃亡してたとか、入院していたとかの理由で)からで、そうして長い年月が流れて父親の訃報があり思い出に浸っているというのが現在の設定ではないでしょうか。鑑賞後すぐは現在のソフィーのパートはいらんかなと思ったけど、ごめんなさい、いりますね、超重要だわ、ほんまに。

 現在を2023年近辺とすると、どうも時代が合わないようにも思えます。劇中は80年代の終わりから90年代初頭だと思いますので、そうするとソフィーはアラフォー以上になると思います。31という数字自体に意味はなく(いや、まぁ、若くもなく、かといって中年でもない、間の世代であるという部分は重要なのですが)、父親と同じ年齢ということに大きな意味があると思いますので、あの父親の容姿や劇中での描写(10代の高校生くらいから、父親とソフィーは兄妹と最初は思われていること)等から41歳ではないと考えられます。そうなると劇中の時代はミレニアム前後になるのか。それならもっと携帯電話は普及していた頃なんですけどね。トルコ(本作の舞台のホテルのある場所)やイギリス(ソフィーや父親が暮らす国)と日本では事情は異なるのでしょう。

 最後に、こう色々と考察しながらも楽しめるけど、全体としては(見た目はというか被った皮はw)シンプルな映画に久し振りに遭遇しました(作り込みというか、表に出していない設定とか構造上はシンプルじゃないけどw)。私がもっと若い頃にこの映画に出会っていれば、かなり好きになっていたかもしれません。

 

THE WITCH/魔女 ―増殖―

ネタバレしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿ピカデリーにて鑑賞

 

 

 群像劇的な作りも相まってか、登場人物とか展開とかごちゃごちゃしてるのを、力技で最後まで持っていった映画という印象です。

 アクションはドラゴンボールと映画のX-MENを合わせたような感じ(映画『マン・オブ・スティール』っぽい)で、前作のような少し超能力っぽいものを使える人同士の戦いというよりも、バリバリな超能力者同士の戦いに完全にシフトしています。無くなった腕とかも再生するし。これは前作の感じがよかった人にはやりすぎだと感じる部分ではないでしょうか。昔のCG偏重の映画にあった重みを感じないアクションに見えました。

 恥ずかしながら、今回の一応主人公ポジの、前作の主人公であるク・ジャユンの妹(名前は劇中でも不明だったかな。コードネームしか分からなかったような)について、ク・ジャユンを演じた俳優さんが一人二役という形で演じていると思っていました。双子っていう設定だったよなという思い込みからでもありますが。全くの別人でした。ごめんなさい。あれ、前作では姉っていうことではなかったでしたっけ。ま、いいか、そんな些細なことは。

 序盤で妹がいきなり頭を撃たれてるのに蘇生して、えっていう感じで物語だけがどんどんと進んでいったというのも、なんとなく分かり難い映画になったなという印象を加速させた原因でもあるでしょう。

 前作の主人公であるク・ジャユンも最後に出てきますが、なんか悪役っぽいぞ(笑)。次回作で妹と戦うのかな。ク・ジャユンは母親に会いたいために、母親と唯一意志が繋がっているとされる妹を探しているということですが、なんで母親に会いたいんでしたっけ。覚えてねーや。あ、養母が認知症になってるので、それを治したかったってことだったかな。本作にそんな気配は微塵もないですけどね。

 前作のラストでク・ジャユンは母親に会いに行ったんだと思っていたら、あの人は母親ではなかった模様です。組織の総括ポジの人で、現在は一線を退いています。主人公のような人達を育成して研究していたプロジェクトの責任者は、この総括ポジの人とは双子の姉妹という設定のようです。母親はこの総括ポジの人だと思ってたんですけどね。

 で、そこにかちこんだク・ジャユンは重傷を負ったようなのですが、映画ではそんな場面(描写)はありません。セリフで語られるだけです。総括ポジの人やお付きの人は戦闘力も高い模様。本作のラストで「私達も準備しないとね」なんて言っちゃってるし。

 さて、今回のお話の内容です。ク・ジャユンは自分の母親の情報を得るために、組織の総括ポジの人に会いにいきますが、ここでなんでか重傷を負いました。

 自分の手で妹を探したかったのですが、重傷を負った状態で妹と対峙するのは危険が危なかったので、組織の管理するラボに幽閉されている能力者を解放し仲間にして、その他の能力者がいるラボを次々と襲撃させ、能力者諸共一層させます。

 上海のラボに妹はいたのですが、襲撃者に脳天を銃でぶち抜かれて敢えなく死亡かと思いきや復活。化け物です。怪物です。つか、妹を殺してどうすんねん。未遂に終わったとはいえ。

 妹は復活後、フラフラと田舎道を歩いていますが、土地売買で揉めている親族(ヨンドゥ)の部下に拉致られた米国帰りの女性(ギョンヒ)が乗った車に偶然遭遇し車内に連れ込まれますが、部下達の慇懃無礼な対応に静かにブチギレて半殺しにし、結果的に拉致られていたギョンヒは助かることになり、ギョンヒは恩義を感じて自分の家に連れて帰ります。

 妹を囲うことになるギョンヒとデギルの姉弟が、闇組織みたいな人(ヨンドゥとかおじさん?の闇医者とか)と関わり合いがあるのになんか危機感がない描写なのですが、他の映画でもこういうのは見飽きましたので、映画製作陣には次回から改善を望みます。

 組織は大きく分けて二つの派閥があり(超人類主義派とユニオン派だったかな)、ク・ジャユン達のような人の育成や研究をしていたのが超人類主義派閥で、そのラボが襲われたことで組織内で内紛が起こりそうになっているようです。

 組織の色々な人が事態の収拾に向けて部隊を派遣したり暗躍したりしますが、人の心の優しさ(というか温もりかな)を知った妹の敵ではなく、決戦の場に集結したそれらの皆さんはあっさりとヤられてしまいます。

 一応決着が付いたと思われた頃にク・ジャユンが登場し、妹と初めて?のご対面。母親を探すために一緒に来てほしいと言いつつ、事態が飲み込めない妹の隙をつき注射を打って昏睡状態にさせて連れ去ります。二人が並べば別人と分かりますが、並ばなければ同じ人ってまた言っちゃいそうです。ファンの方、ごめんなさい。まぁ、姉妹、それも双子?という設定なので似たような人をキャスティングしたんだとは思いますが。

 危機感の薄い姉弟はヨンドゥに銃で撃たれ瀕死で、ク・ジャユンから妹に対し、助けられるのは薬で一人のみ、でも薬で助けても超人的な力が少し宿る代わりに、『仮面ライダー THE FIRST』の一文字隼人のようなリジェクションが出てしまうよっていう感じで(あ、このリジェクションみたいなものがない唯一の人物が妹らしいです、本郷猛ポジですね)、このまま楽に死ぬか、生き残っても地獄ですよみたいな選択を迫ります。結局、弟のデギルに打ったっぽいけど、姉弟の遺体?もいつの間にか消えていました。

 隊長と呼ばれているチョ・ヒョン曹長(だったかな)がなんとなく主人公っぽい立ち回りでした。自分より性能値の高い能力者に対して、これまでの戦闘経験を活かしたような戦い方で対抗し勝つというのは興奮しますよね。

 でも、極端な性能差や数的優位は如何ともしがたくヤられたと思われていたチョ・ヒョンと相棒の欧米人男性(この人も能力者)でしたが二人共に無事に蘇生し、いつの間にか現場に来ていたチョ・ヒョンの元上司のチャン少佐と手を組むのかな、どうなのかなという場面がエンドロール後の展開です。

 次回作に続くということから、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』を思い起こしました。展開とか全く別物なんですが、なんとなく次回への続き方とかの雰囲気が似ていたように思ったんですよね。あ、やっぱり私はチョ・ヒョン隊長を主人公と認識していたようですね(笑)。

 次回作はいつになるんだろうか。そして、広げまくった風呂敷をうまく畳めるのだろうか。多分、本当のラスボスは母親なような気がします。で、姉妹が協力して倒す、と。

 

メモリー

ネタバレしています。

 

 

TOHOシネマズ新宿にて鑑賞

 

 リーアム・ニーソン主演で最強オヤジが活躍する映画となれば、観に行きたくなるじゃないですか。うん、確かに劇中最強ですよ、リーアム・ニーソン(の演じるキャラ)は。暴れますよ。ただ、皆さんが想像し期待するような内容の映画でないことは保証します(ってどんな保証やねんw)。

 ガイ・ピアースとのダブル主人公みたいな感じで、序盤から中盤にかけては二人が交わりそうで交わらない感じで進んでいきますが、これでどちらのキャラ(の流れ)に注目していけばいいのかが散漫になったと思います。リーアム・ニーソン演じる殺し屋視点か、ガイ・ピアース演じるFBI捜査官視点のどちらかに絞って展開させた方がよかったのではと鑑賞中は思っていたのですが、本作はベルギー映画の『ザ・ヒットマン』のリメイクということで、リメイク元の映画(私は未見です)も少しググってみますと本作同様の展開のようなので仕方がなかったのでしょう。

 俳優陣の重厚な演技かつ劇中は派手さを抑えた演出(リーアム・ニーソンは暴れまくりますが)となっており、退屈とまでとはいきませんが、アクション映画にあるような高揚感は得られませんでした。

 リーアム・ニーソン(の演じるキャラ)がターゲットを殺す、FBIチームが殺人現場でワチャワチャするの繰り返しで展開していきますが、少女売春という重いテーマを扱っていることや、劇中の重厚な雰囲気もあってか、重苦しいというよりもどよーん(どんより)としているといった印象でした。

 リーアム・ニーソン演じる凄腕の殺し屋アレックス・ルイスは、年齢のせいかアルツハイマーに罹患し、そのせいで物事を忘れたり、記憶があやふやになったりしており、殺しの仕事にも影響が出始めたのを機に殺し屋稼業から引退しようとしておりました。ただ、アレックスを昔から雇っている組織は引退を認めず、彼に新たな仕事を依頼しました(依頼というより強要ですなw)。

 アレックスはアルツハイマーによる症状を薬でなんとか誤魔化しつつ、ターゲットを確実に殺していきますが、そのターゲットの一人が13歳の少女と分かったとき(つか事前にPadでターゲットを確認してんねんから少女だと気付いてるやろ、実際に少女を見て何をびっくりしとんねんw)、子供は不殺主義なので仕事を中断し、今回の依頼の仲介者に契約解除を申し入れますが聞き入れてもらえませんでした。組織も組織で、アレックスのポリシーを知ってるはずなのにどうして依頼しちゃうのか。多分、アレックスも処分したかったんでしょうね(もう年だし病気にもなってる割には強いし、今までの実績から表だって始末できないけど、なんとか共倒れしてくれればラッキーみたいな)。

 自分が殺すのを止めた少女は他の殺し屋(アレックスの上司ポジ?の人)に殺され、アレックスは組織に逆らったことになったからなのか、上司ポジの人に逆に殺されそうになりますが返り討ちにします。そこからアレックスは今回の仕事に関わる人物をターゲットと切り替えて殺していきます。

 一方、FBIの捜査官であるガイ・ピアース演じるセラは折角助けた少女を殺され、挙句に特別捜査班も解散となり、メキシコから呼び寄せ捜査協力してもらっていたメキシコ人刑事もメキシコに送り返されることになりましたが、なんとか刑事という身分ではなく、捜査協力者として残してもらえることにはなりました。このメキシコ人刑事が本作のキーです。本作を鑑賞される際にはこのキャラを覚えておいてください(劇中にもよく出てくるので忘れはしないですがw)。

 アレックスは順調に黒幕の息子(こいつが少女売春を斡旋していた元締めで元凶)も殺し、黒幕である不動産女王をあと一歩のところまで追い詰めますが、丁度銃の弾切れで現地の警察に捕まってしまいます。ここで、リーアム・ニーソンレイ・スティーヴンソンとのマッチアップが少ない時間ながら見ることができます。リメイク元の映画の黒幕は爺さんだったらしいのですが、本作の黒幕は若作りに執念を燃やす、アラフォーの息子がいる女性という設定です。

レイ・スティーヴンソン氏は2023年5月21日(現地時間)、撮影で訪れていたイタリアで緊急入院し、その後お亡くなりになられたとの報道がありました。お悔やみ申し上げます。

 アレックスは殺した一人から奪ったUSBメモリー3つのうちの2つを郵送でセラ捜査官に送っていました。このUSBメモリーは今回の事件の全容が分かる内容のものです。ただ、黒幕を捕まえるための肝心なもう一つのUSBメモリーは、自分ですら隠した場所を忘れてしまっています。病気なので仕方ないですよね。つーか、最初から3つ送ればいーじゃん。保険のために残しておいたというのは分かりますが、劇中ではあまり意味がなかったですね。

 黒幕はアレックスを脅威に感じており、自分の主治医に「お前も息子から少女を買ってただろ」と脅して、アレックスが収容されている病院に医師として乗り込んで殺してこいと毒薬注射セットを手渡しします。

 医師は病室で眠っているアレックスを殺そうとしますが、やはりただの医師でしかなく殺しは素人なので逆に人質にされます。ただ、病院はSWATに包囲されており(てか用意周到だよな。医師の失敗は織り込み済みなのか、失敗してかなり時間が経って包囲されてしまったのか、セラ捜査官を呼ぶために病院で時間を潰している間に包囲されてしまったのかは不明)、アレックスは人質解放の交換条件として呼び出したセラ捜査官となんとか話をし、彼に後を託すかのように自らSWAT隊の前に飛び出て撃たれて死にます。

 リーアム・ニーソン、映画が終わろうとする10分くらい前に死んで退場です。これはびっくりしましたね。映画館の中で思わず声が出てしまいそうになりましたよ。

 アレックスの最後の言葉で、黒幕の恐喝音声が録音されたUSBメモリーの隠し場所が分かりあっさりとゲットするセラ捜査官ですが(あの建物を調べるのは何度目なんだよと思いつつ劇中では3度目ですね)、判事(ですよね、あいつ)は相手は金持ちだし権力者だし、どうせ立件しても無罪になるので何もしないよーと言って、このUSBメモリーは無駄になったのでした。ちゃんちゃん。

 休暇という名の停職を喰らったセラ捜査官は同僚の刑事に誘われてバーで気晴らしに飲んでいたところ、黒幕が誰かに殺されたという速報をテレビで見ます。そう、同僚の刑事はセラ捜査官にアリバイを提供するためにバーという不特定の大勢がいる前に連れていったのでした。

 黒幕を殺したのは、メキシコ人刑事でした。いや、お前、手際良すぎるよ。ナイフであっさりと首を掻っ切って殺します。証拠になりそうな着ていた服とかも焼いて隠滅します。凶器のナイフはぞんざいに放り投げていますが(笑)。まぁ、このメキシコ人刑事、表向きは国(メキシコ)に帰国途中なのでおそらく何も追及されないだろうから、という理由なのでしょう、凶行に至ったのは。

 それから、このメキシコ人刑事、アレックスに重傷を負わせるという成果も上げてます(まぁ、アレックスが車で逃げるときに後ろから発砲したのが偶々アレックスの左下腹部に命中しただけなんですけどねw)ので、元々そういう素質があるのかもしれません。私はこのメキシコ人刑事、途中で殺されると思っていたんですよ。本作は結構ネームドキャラ的ポジの人が殺されますからね。

 いやいやいやいやいや、ちゃうちゃうちゃう。リメイク元の映画もそういう展開なんかもしれないけど、これはこれでモヤるというか、こういう物語の決着のさせ方は気に入らないというか。映画的にどうなのよと思いました。実際に起きた出来事の映画化とかならともかく。全くスカッとしない。主人公ポジの二人を差し置いて、脇役キャラがですよ、劇中に不穏な雰囲気を醸し出してはいましたけど、あっさりと黒幕を屠って終了って。しかも手際よく(笑)。主人公ポジ二人が可哀想というか、なんやってんなお前らって感じじゃないですか。

 ベタな展開ですが、アレックスが病院から抜け出して改めて黒幕を殺し、セラ捜査官の配偶者と息子を轢き逃げした挙句、証拠不十分でのうのうと暮らしている犯人(劇中には登場しません)も殺して、どこかに人知れず去っていって終了、だと思うじゃないですか。幾ら、病気で余命が3ヶ月から半年程度と言われていたとしても。いや、ま、リメイクだから仕方がないかもですが、私が製作者ならこういう形で変更してますね。

 

妖獣奇譚/忍者VSシャーク

少しネタバレしていますし、disっちゃってます。

 

 

 

 

シネ・リーブル梅田にて鑑賞

 

 宮原華音さんが出演されているということで、宮原華音さん目当てでの鑑賞となりました。宮原華音さんはよかったです。うん、美しかった。華々しく○○しましたし(笑)。(ネタバレは最後の方でw)

 予告編からは地雷臭がしましたし、CGのクオリティからもZ級映画だと鑑賞前から決めつけておりましたが、意外というか売りのアクションはよかったですし、物語の展開も詰め込みすぎとは思いつつも意表を突くような展開があったりと、しっかりと楽しませようとしている雰囲気は感じました。

 ただ、他のZ級映画でもそうなのですが、登場人物をエキセントリックにし過ぎているというか、そうすることで演出の下手さや俳優陣の演技力の低さを誤魔化そうとしているのが残念でした。登場人物をエキセントリックに演出したり演技したりすればいい評価が得られるという思い込みというか価値観は、そろそろ捨ててもいいと思います。足枷というか、単なる逃げにしかなっていないのではないでしょうか。全ての登場人物がエキセントリックになれば、それが普通の状態で誰も目立たなくなるという結果となり、登場人物にメリハリがなくなってしまうのではないでしょうか。

 予算がなく、時間の余裕もおそらくないことにより、登場人物の作り込みもできないという事情からか、登場人物をエキセントリックなものにして誤魔化そうという方向に拍車が掛かっているのでしょうが、日本映画界や俳優の技量という部分においてマイナスにしかなっていないと思っています。抑えた演出や演技と組み合わせていくことが重要ではないでしょうか。

 CGは、血液ドバーとか、忍術(秘術)効果とか、巨大なサメとかにほぼ集約されていたので、ちゃちいなりに見せ方を工夫していたからか、絵面的にもそれほど浮いてなかったと思います。

 生首が何回かゴロンとしますが、その生首が作り物感全開なのは予算の都合なのか、わざとなのか。まぁ、これをCGでやっていたら本作の予算範囲内であれば目も当てられない惨事になっていたと思われるので、作り物感全開でも本作にとってはこれが最適解だったのでしょう。

 宮原華音さんは主人公と同じ職場の同僚だった役で、将来は主人公がその職場の長になり、自分はその配偶者となることを夢見ていましたが主人公は振り向いてくれず(私なら振り向くぞw)、振り向かせるための策略が裏目に出て主人公は職場から脱走(ブラック企業っぽかったしねw)。諦めきれない宮原華音さんは主人公を追い掛けるというキャラです。逝っちゃってますね(笑)。

 主人公が自分に振り向いてくれなければ殺すしかないと拗らせてしまった宮原華音さんは、主人公との激闘の末、爆裂し達磨状態となって息絶えます。が、忍術で死体を操れる(ゾンビですね)宮原華音さんは、おそらく魂をその死体に移しています。

 ラスボスポジの敵も副主人公ポジの人に首チョンパしてやられちゃいますが、こちらも秘術でおそらく復活可能だと思われます(元々若い肉体に魂を移して生き長らえている設定です、よね?)。ということを匂わすエンドロール後の映像でしたが、正直、続編狙いは嫌いです。

 頑張っている感は伝わりますが、その頑張る方向が誤っていればよい効果は期待できません。その勘違いを是正していかないと、特に低予算映画では「お金がない」「時間がない」という愚痴をこぼす状況が永遠に続くことになるかと思います。

 割り当てられる予算規模や時間(スケジュール)ではどの程度のものを製作することが可能かの目標を立てて、そこに到達するにはどうしたらいいのかという思考が必要ではないでしょうか。1,000万円の予算しかないのに、1億円規模の映画を作ろうと思っても無理でしょうし、無駄でしょう。そこをやる気や作りたいという情熱で誤魔化すのではなく、商業映画なら冷静に客観的な視野というものも必要かと思います。作り手だけが楽しむのと、作り手が楽しみながら作るという行為は別でしょう。本作には残念ながら、低予算映画にありがちなやりがい搾取的なそういった悪い実情が反映されてしまっていたように思えます。